はちみつの色
カズキが、車に轢かれた。
カズキはぼくの弟で、リュウを連れて買い物に出かけていた。
その帰りだった。
牛乳と、卵。それからポテトチップスが、カズキとリュウの血でぐちゃぐちゃになって道路に染み込んでいた。
べろんべろんになった今週出たばっかのマンガが、白いビニール袋から顔を覗かせて、ぼくが一番読みたかったマンガのつるつるしたカラーページが、絵の具一色ぶちまけたみたいに真っ赤だった。
会社に出て遅くにしか帰ってこないお母さんは半狂乱になって泣きながら、ぼくを怒鳴りつけた。
ぼくが悪いって。
ぼくがまだ小さいカズキに買い物に行かせたからって。
嘘でしょう?
カズキは小さくなんかない。ぼくより体も大きい。歳だって、一つ違うだけじゃないか。
ぼくがカズキに行かせたって言ったって、お母さんは怒るでしょ?
また塾に予習しないで行ったでしょって。
ぼくは泣いた。
叩かれたほっぺたが痛かったんじゃない。ごつん、って叩かれた頭じゃない。
哀しかったから泣いたんだ。
ぼくが哀しかった理由は、カズキが白い救急車に乗って行っちゃったからじゃない。
ただ、ばあちゃんから貰ったリュウが死んじゃったからだ。
カズキなんかどうでもいい。
リュウが生きててくれたら、カズキなんかどこに行っちゃってもよかった。
かわいいリュウ。どんなところにでもついて来て、おりこうにしていた。
可哀想なリュウ。カズキがリュウを連れていったからだ。
カズキなんか大嫌い。ずっと帰ってこなきゃいい。
そうすれば、テレビだってお菓子だって「カズくんにもあげなさい」なんて言われないもん。
お母さんだって大嫌い。
「カズキカズキ」って、いっつも。
『カズキカズキ』のお母さんはぼくを置いて、ずっとカズキのいる白い部屋に通っている。
「よっちゃん、最近塾来ないのなー。行かないとよっちゃんのお母さん怖いんじゃないの?」
「いいんだよ。行かなくっても」
塾でも一緒のこうちゃんがうるさい。となりのマンションに住んでるこうちゃん。こうちゃんのせいでお母さんにいろんな事がばれてしまう。
「えー?」
幼稚園でも一緒だったこうちゃん。かっこよくて優しいお兄ちゃんがいて、うらやましい。
「うるさいな、あっち行ってろよ!」
「なんだよ、最近よっちゃんおかしいよ!
サッカーしようって言ってんのに来ないしさぁ。
約束しても守んないしさぁ。話しかけたらすぐ怒るんだもん。
もうお前なんか知らないからな!」
こうちゃんなんかいなきゃいいのに。ぼくがこうちゃんだったらいいのに。
「知らなくていいよ、あっち行ってろって言ってんだろっ!」
ぼくが先にこうちゃんを叩いた。喧嘩になった。
こうちゃんは体が大きい。サッカーも野球も凄くうまくて、力が強い。
ちびのぼくが勝てないのも当たり前だ。勝てないのが、当たり前なんだ。
「何すんだよ!」
一発、叩いたら二発叩いてきた。三回蹴ったら四回蹴ってきた。
勝てないのは当たり前なんだ。
「先生! 菊地くんと藤原くんが喧嘩してます!」
どうせ学級委員のバカミカコだろう。
いい子ぶって、ほんとうにミカコはバカだ。騙されてる先生もバカだ。
パンっ! って音がして、ぼくは張り倒された。
鼻が痛くて、冷たくて、ジンジンする。鼻水が出てきたのかな?
そう思って手をやると、手が真っ赤だった。
カズキの手と同じくらい、真っ赤だった。
「先生、菊ちゃんが鼻血出したぁ!」
「ご、ごめん! ごめんね、よっちゃん…」
ああ。教室もうるさい。悲鳴とか、「すっげー」とか。
うるさい。こうちゃんも、うるさい。
この手を見たら、お母さんは「ヨシキ、大丈夫?」って言ってくれるかなぁ?
うんうん唸っていたら、ホットケーキ焼いてくれないかなぁ?
「カズくんには内緒よ」って。
気がついたら、教室じゃなかった。
まだ帰る時間じゃないのに、もうすぐでコバヤシ文具店の前を通る。
コバヤシ文具店にはちょっとお菓子も置いてある。
二十円の甘いチョコレートとか、十円ヨーグルトとか。
あ。カバン、教室において来ちゃった。
カバンの中の財布に、百円玉があったのに。
…鼻ぁ、痛いなぁ…。
リュウがいないせいで、家がすごく静かだ。
入ろうとするとちょうどお母さんが出てきた。
「あら、ヨシキ」
「お母さん…」
仕事のスーツを着たまま、口紅だけは薄くしてお母さんは息を切らせながら出てきた。
「今からママ、カズキの所行ってくるからね。ちゃんといい子にしてなさいよ」
急がなきゃ。お母さんはそう言いながら車に乗るとバタンって大きな音を立ててドアを閉めた。
あっという間に、お母さんの運転する車は角を曲がって見えなくなった。
“ご飯はレンジのなかにあります。手を洗ってから食べてね。
歯をしっかりみがくんですよ――ママより”
カピカピの手は石鹸もピンク色しながら水も赤くした。
鏡を見ると、ドラマとかマンガとかで見るみたいにカッコヨク一本筋の鼻血が流れてると思ったのに、バカみたいに両方の鼻の穴から流れて、手でこすったから口のまわりでぐしゃぐしゃで、哀しくなった。
カズキのバカ。お母さんのバカ。こうちゃんのバカ。先生のバカ。ミカコのバカ。
でも、一番のバカはぼく。
塾に行かなくて、約束守んなくて、こうちゃんと喧嘩して、鼻血まで出して、お母さんに気づいて貰えなくて。
ぼくが一番バカ。
どんなに大声で泣いたって、誰も来てくれないのに。
帰るもんか。学校なんか行きたくない。
そう思ったから、家出をする事にした。
空は絵の中に居るみたいに綺麗で、確か家を出たのは二時くらいだったのに、太陽は夕方みたいに傾いていた。
ずっと広がる草ッ原が、金色で、風が吹くたびにざざざっと音を立てた。
見たこともない草。まばらに生えた大きな木が、大きな影を落していて、ゆっくり大きく揺れてる。
ここは、どこなんだろう?
ぼくが来たのは、これからマンションが立つから入っちゃいけないって言われてた空き地だったのに。
あの、瓦礫山なら、一晩くらい見つかんなくてすむって思ったのに。振りかえっても、いっちゃんちのマンションなんか見えないし、コバヤシ文具店も何にもない。
来た道も、綺麗な草っ原で…建物もない。
どうしよう、帰れないよ…。…本当に、ここはどこなんだろう…?
夏に行くばあちゃんの所によく似た匂いが、すうっと通りすぎた気がした。
「ヨシキ、ヨシキだね?」
「ばあちゃん!」
一本の木の横に、小さなテーブルを置いて、ばあちゃんが大きくて真っ白なテーブルクロスを広げていた。
「ばあちゃん…」
「おや、ヨシキ。喧嘩したのかい? だめだよぉ、乱暴なことしちゃ」
「ばあちゃん、ごめん…。ごめんなさい…ごめんなさい…」
しわしわでごわごわした暖かいばあちゃんの手がほっぺたをさわった。
胸がほこっと暖かくなって、ばあちゃんを見るとあったかくて、泣きたくなって――――
「…リュウ、死んじゃったよぉ…。ごめんなさい、ばあちゃん、ごめんなさい…」
「いいんだよぉ、ヨシキ。リュウはここにいるよ」
ばあちゃんは草っ原の向こうに向かってリュウを呼んだ。
金色の夕日の中から、小さな点みたいな黒いのが飛びだして、こっちに走ってきた。
オレンジがかった茶色で、ぴんと立った大きな耳、ホウキみたいなシッポ…!
「リュウ!!」
ちょっと臭くて、すごく真面目で、ぼくが隠したものを勝手に掘りだしてきちゃう、でもぼくのリュウ!
お母さんの焼いたホットケーキが大好物で、ケガした所を平べったいベロでなめてくれるのがぼくのリュウ。
「リュウはね、ばあちゃんとこに来たくなって来ちゃったんだよぉ…。
だからね、大丈夫」
ぐしゃぐしゃの顔のまんま。
ぼくはばあちゃんの言葉にうなずいていた。
「リュウもヨシキに会いたかったんだねぇ。ばあちゃんも会いたかったよぉ。
最近アキコは帰ってきてくれやしないんだから」
カズキは元気? なんてばあちゃんは聞かなかった。ただぼくの肩を叩いて
「せっかくだから、お前もおやつを食べていきなさいねぇ」
そう言っただけだった。
「手伝ってくれるよねぇ、ヨシキ」
ばあちゃんはバスケットの中から花瓶みたいにおおきな壷をとりだしてぼくに渡した。
とても重くて、甘い匂いがとてもおいしそうだ。
中は透き通った金色の…ハチミツ…?
「それをテーブルの上に置いておくれ。早くしないと、みんな来てしまうよ」
ごとん、大きな音と一緒に壷をおくとばあちゃんは拍手をした。
「すごいねぇ、ヨシキ。ヨシキは力持ちだねぇ。次は、お皿を並べておくれ」
そう言ってばあちゃんはお皿を次々とりだした。
白くて、鏡みたいにぴかぴかの平らなお皿。
「早くね。みんなが来てしまうから」
「ばあちゃん、みんなって?」
「みんなは、みんなだよ。さあ、ヨシキ。早くお願いねぇ」
イスの前にお皿を並べていくけど、どんなに並べても終わらない。
テーブルは、ずっと小さいと思っていたのに、いつの間にか木の下からずっと遠くに来ていた。
やだなぁ、終わんないよぉ…。Uターンに来たけど、テーブルはずっと長い。
イスの数も、ぼくの教室の人数より何倍もある。
リュウが喜んで後をついてる。
「ほらぁ、ヨシキ。早くしないとみんなが来てしまうよ」
ばあちゃんが叫ぶ。
「でも、ばあちゃん」
「じゃあ、ヨシキはおやつ要らないわけだぁね」
そんなぁ!
慌てたから、お皿はがちゃがちゃと音をたてた。
やっと置いても置いても無くならなかったお皿が無くなった時、ぼくはホットケーキを山みたいに積んでるばあちゃんの隣にいた。
「よくやったねぇ、ヨシキ。良かったよ、間に合った」
「ばあちゃん、一体誰が来るんだって?」
「ほら、おいでなさったよ。大切な、お客さんたちさぁ」
透き通った、虫みたいな羽をもった人達だった。
みんな真っ黒で、茶色い毛皮みたいなマフラーと、黄色いしまの入ったズボンをはいていた。
ズズズ……ズ、……ズズっ……
口々に、その『お客さん』たちはそんな声で喋った。
「静かに! 静かに!」
ばあちゃんは『お客さん』たちに叫んだ。
急にしん、として耳が痛いくらいだ。風の音がざざざぁっと響いた。
「席にお座りなさいな。ハチミツはこっちにいれておくれ」
ばあちゃんはいつのまにかぼくの後ろにあった家みたいに大きな壷を指差した。
『お客さん』たちは腰につけたバケツを持って宙に飛びあがり、金色のとろりとした甘い匂いのハチミツを壷の中に流す。
流し終わった『お客さん』から、次々イスに座っていった。
「さあ、ヨシキも座んなさいねぇ」
ばあちゃんはイスを一つ引いてくれた。
「ばあちゃん、この人達…」
「さあ、今日はホットケーキだよ。
あんたたちのおいしいハチミツを思う存分かけておくれ」
影みたいに静かな『お客さん』たちは一斉にナイフとフォークでホットケーキにとりかかった。
いつの間にか、ぼくのお皿にも大きなホットケーキが、おいしそうな匂いをたてて乗っていた。
ばあちゃんがとろりと金色のハチミツをかけてくれた。
切って、一口。
「ばあちゃん、苦いよ」
ぼくはばあちゃんの方を振り向いた。ばあちゃんは笑った。
甘いはずのハチミツは苦くて、なんか胸がどっしりして苦しい。
「苦いかい?」
「うん」
ばあちゃんのごわごわした手がぼくの頭を撫でる。
「それは、ヨシキが若いからだよ」
「どうして若いとハチミツが苦いの?」
「…ヨシキ、よぉくお客さんたちをご覧」
ばあちゃんは秘密を打ち明けるようにぼくの耳元で言った。
「この人達は、ヨシキたちの住む世界の人達じゃないの、分かるかい?」
それは、こんな変な格好した人達なんて滅多にいないけど――世界って?
「もう死んじゃった人達だよ」
「じゃあ、幽霊!?」
ばあちゃんは小さく笑った。
「幽霊、じゃあないねぇ。そうだねぇ、運び屋、って言ったほうがいいねぇ」
ばあちゃんは口の前に人差し指を立てて静かにするように言った。
「何を運ぶの?」
ぼくも小さな声でばあちゃんに聞く。
「心だよ。嫌なこと、悲しいこと、楽しかったことも全部、心の中に溜まった気持ち全部運ぶのさぁ」
「どうして?」
「そうじゃないと、心が重くなっちゃってねぇ。心が壊れてしまうからさぁ」
心が、壊れる…。
「大切な人を残して死んでしまった人達がこうして、生きて気持ちを溜める人達から気持ちを運んでいってくれるんだよ。
時々心をくすぐって、新しい気持ちを生みださせることもあるけどねぇ」
ばあちゃんは続けた。
「ヨシキが食べたのは、その気持ちさぁ。
年を取れば、どんな気持ちも甘く感じるようになる。
でも、若いと心は敏感なんだねぇ。
自分の気持ちで精一杯なのに、他の気持ちも入ってきてしまうからずっしりと重く感じるんだね」
あれ? …そう言えば、ばあちゃんはこの前―――。
「ばあちゃんは…ここで何やってるの?」
ばあちゃんはぼくの肩においた手をゆっくりと離した。
「ヨシキ、会えて嬉しかったよぅ。きっと、お前のお父さんも喜んでる」
お父さんが…?
ざざぁっと今までよりずっと大きく風が吹いて、テーブルもホットケーキもイスも無くなって『お客さん』達は空に舞いあがった。
「お父さん!」
ぼくは皆同じに見える『お客さん』の中に、お父さんをみつけた気がした。その『お客さん』は少しぼくの方を振り向いて、小さく笑うと他の『お客さん』達と夕焼け色の空に飛んでいった。
「帰んなさい、ヨシキ。お母さんが心配するよぉ」
金色の空にどこにもいないばあちゃんの声が聞こえた時、ぼくの身体はずっしりと重くなって金色の草原の中にうずくまってしまった。
…眠い…。
「ヨシキ、ここで寝ないで。風邪引くわよ」
ぼく、寝てたんだ…。お母さんは口をぎゅっと結んだままソファに座るとそのまま頭を抱えて溜息をついた。
じっとしていて、なんだか知らない人みたいに見えて、ぼくはさっきみた夢の事を話し出せなかった。
プルルルルル、って電話が一回なるかならないかの内にお母さんは凄い勢いで受話器を取った。
ほとんど同時にインターホンが鳴ったけど、ぼくが出るしかない。
出るとこうちゃんが立っていた。
こうちゃんは塾に行くところみたいに、青くて平べったいカバンを背中にしょって、むがむが口を動かそうとしていた。
「こうちゃん、どうしたの―――」
「ごめん、よっちゃん! 鼻、大丈夫?」
「うん。平気だよ」
こうちゃんは持っていたちっちゃい瓶をぼくに押しつけた。
「よっちゃん、ホットケーキ好きでしょ?
だからこれあげる。ハチミツなんだけど、おいしいよ」
「あ、ありがとう!」
透き通った金色。
夢の中の、ばあちゃんのハチミツとおんなじきれいな金色。
「また、よっちゃん元気になったら塾、一緒に行こうね!」
「うんっ」
「またね」
こうちゃんはそう言って走って行った。
こうちゃんから貰った金色のハチミツはあったかい、夢の中のあの夕日にそっくりだった。
「お母さん、こうちゃんから―――」
お母さんは泣いていた。泣きながら、ぼくを抱きしめた。
ぼくははじめてみるお母さんの涙にちょっとびっくりした。
「カズくんね、歩けるようになるって…。よかった…」
カズキ、歩けなかったんだ…。はじめて知った。
でも、お医者さんがなおして、歩けるようになったんだって、お母さんは教えてくれた。
「お母さん…」
「なあに?」
「カズキのお見舞い――ぼくも行きたい」
じゃあ、明日にでも行きましょうね、とお母さんは言った。
ぼくはカズキにあげるものがある。
「ぼくね、カズキにあげるのがあるんだ」
カズキにあげるものは、今ぼくの手の中の小さな瓶。
ぼくはもう腹いっぱい食べたから、カズキにあげよう。
カズキもきっと気に入るよ。
だって、カズキの大好きな太陽とおんなじ色をしてるんだから。
Fin