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携帯電話


 目が覚めたら、身体中が寒かった。
ふと気がつけば、ここはいつもの私の部屋じゃなくて、夕日が目にまぶしかった。
―――ああ、そうか。私は山登りに来て、疲れて眠ってしまったのだ……。
だから、こんなにも身体が痛いのだ。
幾ら夏だったからって、山は寒いものなんだね。
家に帰らなくては。
うーん、と伸びをすると土がぱらぱらと零れた。
「あ、きのこ」
 こんなすぐ傍にきのこがあったなんて。気がつかなかったな。
携帯電話を取り出して、かけてみたけど山の中だから電波が届いているはずもない。
山を降りて、駅からかけよう。
それがいい。
山を降りる道はいくつかあって、それは山道口でひとつになっている。
丁度、他の山登りの人たちが他の道から降りてきたところだ。
山では登山者は互いに挨拶するのがマナーだ、と私は思う。
それなのに
「こんにちは」
「……」
最近のおばさんたちってマナーがないね。
最近の若者がどうのこうの、なんて言える筋合いじゃないんじゃない?
会釈ぐらいしてくれたっていいと思うんだけど。
駅について、携帯を手に取った。
履歴を押して、うちの電話番号を選んだ。
幾らか呼び出し音が鳴ったけれど。
『ただいま、留守にしております。』
あらま。
しょうがない。
「あ、お母さん、私だよ。今ね、山の駅にいるの。今から帰るからね」
 切ったあとで思うけど、何で留守電なのに「お母さん」て呼びかけてしまうんだろう? 
なんか知らないけど、口元が緩む。
当たり前だけど、もうこの時間では帰りの電車もがらがらで、私は妙にあったかいシートに腰を掛けられた。
この電車に乗って一本、大体一時間弱。
寝れるよね。
ちょっと、疲れた。
静かで、少しゆれる車内は気持ちがいい。
ぼーっとしているだけで、もう時間も電車も飛んだ。
微妙に都会化し始めている私の街。
山登りのあとは何故か感慨深い。
私の生まれ育った街だ。
もう外は暗くて、まるで秋の日のようなつるべ落としに感じた。
私はまた携帯を取り出した。
「お母さん?」
『ただいま、留守にしております。』
 留守電に「お母さん」って言うとすごくはずかしいなぁ。
そもそも留守電の応対音声はお母さんの声だから仕方が無いのだけど。
「あのね、今着いたの。歩いて公園周りに帰るからね」
 それにしても、前に電話してからそれなりに経っているのに何で留守電なんだろう。
買い物に行っているには長すぎるような気がする。
もしかしたら、今日は姉さんが帰ってくるのかもしれない。
姉さんが帰ってくる日はいつもご馳走だ。
だからその分買い物も時間がかかる。
そうに違いない。
「私も帰るんだけどなぁ」
 思わず苦笑いがこぼれる。きっと姉さんは目を丸くして私を叱るに違いない。
こんなに泥だらけなんだもの。
閑静な住宅街に、家はある。
閑静、とはいえ今日はやけにしんとしている。
まるで、深夜のようだ。
おかしいな。
まるでいつもの道じゃないような、そんな表情をしている。
「あれ」
 本当に変だ。
ここを曲がれば、私の家のはずなのに……私の家がない。
道を間違えたかな?
いや、でも違う。
ここのはず。
だって、お隣の表札も、庭も知ってるもの。
でも、そのお隣の表札は私の家を挟まずに、二つ並んでしまっている。
「わわわう、わうっ」
「わっ」
 犬の吼えた声に驚いて、私は思わず転んでしまった。隣の家のジョンだ。
まるで泥棒に吼えるみたいに、吼え狂っている。
ジョンは私に吼えるなんて事はしなかったはずなのに。
やっぱり、ここは違う通りなのかな?
「ジョン、ジョン。静かにして」
 隣の家の女の子が窓から顔を出して、ジョンを叱った。
それでも、ジョンは静かにならない。
「ねぇ、あの―――」
 女の子はあきらめたように窓を閉めた。番地を確かめたかったのだけど。
私は携帯電話を取り出した。
「あ、壊れてる……」
 化粧のコンパクトみたいに二つに折れる携帯電話は、私が寝てる間に背中に引いてしまったのか、真っ二つになってしまっていた。
あーあ、新品だったのに。土まで入ってしまっている。
「……あれ? 私―――これでさっきから電話してたよね?」
 ということは、きっとさっきジョンに吠えられてころんだ時か。
ああ、もったいない。
どうにかして、使えないものかな。
ボタンの中に入ってしまった土は湿っていて、爪で掘ると随分と出てくる。
変だな。
転んだだけなのにこんなに土が入るものかしら?
使い物にならなさそうだね。
公衆電話を探そう。
ここが私の家の近くだとしたら、公衆電話は近くない。
駅に行かないと。
ポケットの小銭を数えようと手を突っ込むと、土の塊が入っていた。
私、小銭をどこにやったんだろう?


電話が鳴る。
数回鳴って、機械が動き出す。
「ただいま、留守にしております。」
発信音の後にメッセージを、と続いてその発信音は神経質に鳴る。
『あ、お母さん、私だよ。今ね、山の駅にいるの。今から帰るからね』
暫くして、再び電話が鳴る。
留守番電話が動き出す。
『あのね、今着いたの。歩いて公園周りに帰るからね』
少しして、隣の家の犬が吠え立てる。
「わわわう、わうっ」
 その声を聞きながら、女は泣いていた。
夫は女の肩を抱きながら、じっと眉根に皺を寄せ、目に涙を浮かべている。
「ねえ、あの子が帰ってきているのよ。ねえ、あの子はすぐそこに居るのよ」
「駄目だよ。あの子はもう帰ってくるはずがないんだ。もう居ないんだよ」
「お願い、行かせて。ドアを開けさせて。あの子を抱き締めてあげたいのよ」
「駄目だよ。開けてはいけない。開けて中に入れてはいけないんだよ」
「ああ……。どうして、どうして……」
 むせび泣く妻を腕でしっかりと抱きとめながら夫は泣いていた。
無機質な白い蛍光灯に光に、棚に置いた携帯電話が照らされていた。
十月下旬の日付の新聞が、そっと隣に置かれている。
その記事は、逮捕された複数の男たちのことを扱っていた。
「駄目なんだよ。あの子が自分で気づくまで。駄目なんだよ」
 夫も泣きたいのを我慢して、外に飛び出そうとする妻を押さえ込む。
「お願い、行かせて……」
 土と血で壊れた携帯電話は、鳴ることなくそこに佇んでいる。




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