名前 What is my name？
その少女は私に問うてきた。
「ちょっとすみません。私はだれ？」
「はぁ？」
この子、ちょっとおかしい？それともからかってるの？
そう思った私は鼻で笑って通り過ぎようとした。でも。
「お願い！答えてっ。私は誰なの？」
少女の真剣な、子供とは思えないくらい真剣な顔と声は私をそうさせなかった。
可愛らしいポニーテイルで、それでも今にも消えそうな子･･･。
どこかで見たような･･･。でもどこで見たのかが分からない。
「ごめんね。私には分からないわ」
誰か他の人に訊いてみて･･･。
「駄目なの！あなた自身が答えて！」
幼い声で泣きそうになりながら必死で問いかけてくる。
何故だろう、彼女が私に言うたびに胸が痛くなる。
思イ出シテハ、イケナイ･･･。
でも何か、何かあったじゃない。
そう、何かあったはず･･･。
ダメ、思イ出シタラツラクナル。
どうして？何が駄目で辛くなるの？
「お願い･･･。私のことはあなたにしかわからない」
少女の目からポロポロと涙が流れた。
「夢だったと消去しないで」
私は時計を見た。十時二十三分。あと七分で就職面接が始まってしまう。
「ごめんね。時間がないの。思い出したらここに来るから待っててね」
私はその子に背を向けた。
「私だって、もう時間がないのっ！」
その言葉に振り返ると、泣いた顔のその子が霧のように空へ同化していく。
「私はッ･･･誰っ！？」
彼女は空へ溶けてしまった。
「･･･君の考えはすごく模範的だ。
だけどそう、まるでコンピューターと話しているように味気ない」
私はうつむいていた。これが最高の考え、絶対に受かる、と思っていたのに･･･。
「酷なようだけど、僕のところみたいな子供用のオモチャ会社にははっきり言って
向いていない」
目の頭が熱くなっていく。
「子供の頃の思い出や気持ちがなければやっていけないんだ」
思い出？私は子供だったころの思い出をさがした。
母と父が別れて、私は母に連れられて、意地悪で暴力的な義父の元へ行った。
――こいつはいつも、俺とあいつを比べやがるッ！
――何だ、その目はッ！
――どいつもこいつも気にくわねぇ！
酒を飲んでも素面でも私に暴力を、母にはおべっかを使っていた義父。
父とは対称的だった･･･。対称的？どの辺が？正反対だったことは分かるけど、
どういう感じで？私は父の顔を思い出そうとした。
･･･思い出せない･･･。
顔も、職も、体格も、年齢も、すべて！
幸せだったあの頃の思い出は、霧のように手からこぼれていった。
そうだ、そういえば私の旧姓は何だっただろう･･･？
「ということですから、羽本さん。失礼ですが、お帰りください」
私は席を立った。
面接に落ちたことよりも記憶の抹消の方が哀しかった。
お昼時の街は騒がしい。私は少女に会った道にさしかかった。
誰か亡くなったのだろうか、お寺の前に黒い花輪が置いてある。
何気なく覗くと、『緋山家葬儀式』という看板がかかっていた。
緋山･･･どこかで聞いたことのある名前だと思った。緋山、ひやま、ヒヤマ、緋山･･･。
･･･ひやましゅうじ･･･。･･･ヒヤマシュウジ？ 緋山修治！それは、父の名前だ･･･。
･･･私の名は？
もう、遅かった。
私は、私の記憶だったあの少女は、私に消去されてしまったのだ･･･。
終
