雨・春
雨が降っていた。
煙るように降る雨に、いつもはつやつやと輝く竹藪の若葉が静かに湿っている。
その中で、庭の紫陽花は淡く鮮やかな青さを目に残す。
格子にはめ込まれた薄いガラスの向こうの灰色の世界は音がない。
生温く、ぬったりと重く湿った空気が蓄音器の音をくぐもらせる。
女学校に行かなくてもよい休日は、寝椅子に身を預けて本を読むのにうってつけの日だ。
「つまらないな」
実音はそう言ってぐぅっと体を伸ばす。
女学校に上がったとはいうものの、畳の上に雪白の足を放りだし、まだまだすることは幼い。
肩口で切り揃えた黒髪と雪白の肌が艶やかな少女は「ねえ」と私をみて微笑んだ。
「遊ぼうよ」
構わない、と応じると大きな瞳をくるりと煌めかせて笑う。
「じゃあね、蝸牛を取ってきてほしいの。あの紫陽花にいるのを二匹。それで競争させて遊びましょうよ」
正直な話、やられた、と思った。
外は長雨で、土道にうるうると水は流れてあちらこちらにわだかまっている。
着物の裾を汚さずに行くのは困難だ。
「蛙でもいいよ。競争させたいんだもの」
手にしている団扇ではたはたとこちらに風を送りながら、白い歯を見せて笑うその顔は、大人びたようないつものものよりも年相応に見える。
「実音がいってらっしゃいよ。言いだしっぺでしょう」
そう言ってやると、彼女は頬を膨らませた。
「やぁよ。あたし、濡れるのは嫌い」
「私だって嫌」
「そうねえ」と実音は頭を傾ぐ。
そうやって考えてるものだからしばらく放っておいたら、そのままうつらうつらし始めた。
「ちょっと」
柔らかな頬をつついて起こすと、驚いた顔をする。
「一緒に捕りに行く、なんて考えはないの?」
「だって、あたし濡れたくないんだもの」
「行くよ。さあ、実音も傘をとりなさい」
口をとがらせながらも、実音はおとなしくついてきた。
生温かい空気の中、しきりに降る雨はさあさあと絶え間なく耳に涼しいが、ぬかるんだ庭の土道には閉口する。
湿って冷たくなるつま先をこらえながら紫陽花に屈みこむと、その葉には実音が言った通りに親指の爪ほどの蝸牛が乗っていた。
葉ごと手折ろうとすると、後ろから呼ばれた。
「何をしているの?」
「何をって―――」
ふり返ると、立っていたのは実音ではなかった。
朱色の番傘に、涼しげな藤色の余所行きの着物を着たお母様だった。
うりざねの顔が蝋のように白く、紅をさした唇はわなないて、凍りついていた。
黒々と黛を引いた柳眉をゆがめ、お母様は私の手をつかみ抱き寄せる。
夏が間近という時期に、氷のように冷たい湿り気を帯びた手だ。
「いいのよ、いいの。大丈夫よ、大丈夫」
お母様の甘やかなおしろいの匂いがする。
「何がですか?」
匂いにのまれそうになりながらお母様に尋ねると、お母様はいっそう私を強く抱きしめた。
「大丈夫よ。お母様が守って差し上げます。あなたは何も見なかったの。何も知らないの」
そう言って、しっとりと冷たい手は私の頭を固定しようとする。
何をそんなに見せたくないのか。
何を見るなと言うのか。
お母様の手から脱し、見ずには居られなかった。
淡い青の冷たい紫陽花はあふれんばかり、手鞠のようにまるまると緑色の葉の上に転がって咲き誇る。
その下だ。
その下に、白いものを見つけた。
手だ。
人の手だ。
ほっそりと白いしなやかな指が空を見上げている。
「あなたは何も見なかったの。何も知らないの」
そう言い続けるお母様を払いのけ、私は紫陽花をかきわけた。冷たい滴が頬にはじける。
華奢な白い手は雪白の腕へと続き、その先は鮮やかな、白と黒のコントラスト。
肩口で切り揃えられた黒髪は白の喉元をあらわに、実音が長いまつげの影を頬に落とし眠っている。
黒土が実音の体の半分を覆っている。
そんな……
「嘘だ、だって実音はつい今さっきまで私と、一緒に―――」
「あなたは何も見なかったの。知らないの」
冷たい手が雨だれのように私の首を這う。
「さっきのは、誰……」
私の手は震えていた。
実音の白い頬に触れる。
不意に、閉じていた大きな目が開かれた。
三日月のように黄色の瞳で、実音が笑う。
「みゃあおぅっ」
猫そっくりの声だ。
「ねえ、どうしたの?」
よく知った声が、後ろからした。
「実音!?」
実音はきょとんとした顔で、私を見ている。まんまるとした黒い瞳だ。
「蝸牛はいたのでしょ?」
実音がからかうように私を見上げて「ははん」と鼻を鳴らした。
「蝸牛は怖い?」
「そんなのではない、けれど……」
実音は笑い顔を隠しもせず、傘を私に任せ「怖がりね」と紫陽花に屈みこむ。
その濡れて光る緑の葉をがさがさとかき分けて白い手を奥へと伸ばすのを私は見ていた―――イイエ、違う。
私が見ていたのは実音の手ではなく、彼女の白磁の首筋だった。
肩口で切りそろえられた黒髪が前に垂れ、美しいそれに鮮烈な縁取りを加えている。
私は触れたいと思ったのだ。
実音の傘を落とすと、気がついた実音が肩越しに振り向いた。
「どうしたの、濡れてしまう」
その言葉を最後まで聞かず、私は実音の首に手を伸ばした。
私の手から逃れようとした実音は、姿勢を崩す。
そうして紫陽花の株へと倒れこんだ。
運が悪かったとしか言いようがない。
折れた紫陽花の茎が彼女の喉元を串刺しにした。
濡れた白い肌に、じわりと赤い血の球が滲みあふれ、首の筋を通って滴り落ちて行く。
細かく震える実音が、私にゆっくりと手を伸ばし宙を頼りなげに掻いた。
「何をしているの?」
不意に後ろから声をかけられた。
振り返ると、涼しげな藤色の余所行きの着物を着たお母様が立っていた。
朱塗りの番傘を手にしているお母様の目は見開かれ、私と実音を見ていた。
顔色は色を失い、紅をさした唇はわなないたままお母様は私に駆け寄り、抱きしめて言う。
「いいのよ、いいの。大丈夫よ、大丈夫」
白粉の甘い匂いがむせかえるほどに強い。
「あなたは何も見なかったの。何も知らないの」
きつくわたしを抱きしめるお母様の手は氷のように冷たい。
私は目の端に実音を見ていた。
もう彼女の手は地面に降りて、雨に打たれている。
「実音……」
そうつぶやいた時、彼女の目は開いた。
黄色い瞳が私を見て笑う。
「みゃあおぉうっ」
猫が笑うようだ。
「ねえ、どうしたの?」
よく知った声が、後ろからした。
「実音!?」
実音はきょとんとした顔で、私を見ている。まんまるとした黒い瞳だ。
「蝸牛はいたのでしょ?」
「え? ええ……」
紫陽花を見れば、その葉の上に二匹の蝸牛がいる。
薄紫の殻をしたのと、朱色の鮮やかなのと。
手を伸ばして、葉を手折ろうとしたがどうしてもためらわれた。
「やあだ、もしかして蝸牛が怖いの?」
「そう、じゃないのだけど―――」
「あたしが捕ってあげる」
実音はついついと蝸牛をつまみ上げた。
「ほら、大丈夫よ。こんなもの」
にっこりと笑顔を見せて手のひらに転がる蝸牛を高々と掲げる。
「もしかして、蝸牛の迷宮に落ちたのでなくて?」
蝸牛の、迷宮?
「それは何?」と聞く前に、実音は着物の裾をつまみあげ、器用にくるりと回って見せた。
「知っていて? 欧羅巴では蝸牛も食べるのですってよ」
つつつ、と艶やかに赤い口元に蝸牛を持っていくのを慌てて止めると、実音はニッと笑った。
あきれて返す言葉も思いつかない。
「いいから、部屋に戻りましょ。風邪をひくわ」
競争よ、と言って駆け出す実音は跳ね返る泥もお構いなし。
私もそのあとを慌てて追った。
雨はまだ止みそうにない。