目次に戻る

鮫男


 小学生のとき。私をいじめた吉岡は、まるで鮫のような男だった。
今でも思い出す。
あの、日に焼けて浅黒い肌と、少し厚ぼったい唇から覗く磨いた真珠のような歯。
黒い瞳は雑魚を見つけると爛々と輝き、その雑魚とは私のことだった。
その吉岡から逃げ出すように中学から地元を離れた私は実家に帰る度に怯えていた。
一歩もかたくなに外へ出ることを拒み、ぬるま湯のような淀んだ空気のある家の中を回遊する。
それが私の長期休暇の過ごし方だった。
 あれからもう何年経つだろうか、私は故郷から遠く離れた大学で足をすくませていた。
私の目の前を悠々と吉岡が通り過ぎる。
あの頃と何ら変わりなく、海原を泳ぐ鮫に似た姿に目眩がする。
幸いなことには、吉岡は私が雑魚の私だと気付かず通り過ぎたことだ。
真珠の歯を煌めかせ、キャンパス内を回遊する。
吉岡の後ろを3人の男たちがついて歩く。
その中の1人に見覚えがあった。
小学生の時からああやって吉岡の後に従う男、三井だ。
三井は吉岡とは対照的に陽を浴びてもなかなか日焼けすることがない。
気性も吉岡のように荒々しくない、むしろ大人しい。
しずかな三井は吉岡の白い影のように付き従う。
だが、三井のやることはそれだけではない。
三井は釣りをするのだ。
吉岡のために、女を、細面の美しい顔で。
女を吉岡に食わせたあとで自分はおこぼれを貰う奇妙な腰巾着ぶりは相変わらずらしい。
大方、他の2人もそうなのだろう。どれも女好みしそうな容姿だ。
「ねえ、吉岡さんたちってかっこいいよね」
 そう囁く女生徒の多いことがそれを裏付ける。
だが、私の目には鮫が四匹に増えただけのこと。
自分から進んで餌食になることだけは嫌だった。

 吉岡を見つけて二ヶ月が過ぎた。
基本的に学部が違うおかげで、吉岡も三井も私に気付いていない。
平穏な凪の日が続き、私はほっとしていた。
ただ相変わらず鮫四匹の雑食譚はよく耳にする。
同級生の今井が教えてくれるのだ。
小柄で陽気な今井は一時期あのメンバーにいたらしい。
「でもやってることって、やっぱりヤバいじゃん? だから、抜けちった」
 今井が抜けようが何をしようが私には関係がない。
でも、どうしてその情報を私に流すのか、気になって聞いた事がある。
「だってさ」
 と今井は笑いながら言った。
「女のほとんどはあいつらのファンなんだもんよ。うっかりしたことは言えないよ」
「私が、吉岡たちのファンじゃないってどうして分かった?」
 匂いだよ、と今井は言った。
あんたは昔、吉岡たちにあったことがあるんじゃないか? と言った。
「あんたに古傷の匂いがする」
 鮫は、凄まじい嗅覚を持つという。
海で血の匂いを流すと、1km先にいたってあっという間に食いついてくる。
鮫なんだ、と思った。
今井も、吉岡も。

 いつも通りの日だった。
雨で肌寒いだけ。
カーディガンが必要な日だった。
人気まばらな講堂で、私の目を三角の石が惹き付けた。
思わず拾い上げると、親指の爪ほどの艶やかな白い石だった。
二辺だけが細かにギザギザと尖って握りしめると掌に痛かった。
鮫の歯だ。
それも、鉱石屋に置いてあるような化石の1つかもしれない。
「何それ?」
 今井が覗き込む。
「鮫の歯だと思うよ」
「ふぅん」
 ささやかな好奇心が満たされた今井は「ところで」と切り出した。
目がせわしなく、周囲を見渡している。
「どうしたの?」
「吉岡、知らない?」
 あれはこの授業をとってなかったんじゃなかったか?
「少なくとも、私はこの授業で見たことは無いね」
「だろうなぁ」
 今井は声を潜めた。
「最近、あいつらヤバいのよ」
「あんたがそんなに言うほどに?」
 鮫の一人のくせに、今井は頷く。
「もうあいつらの頭ん中ヤベェよ。昨日この教室でサカってんの見ちまった」
「……あんたも、災難だね」
「災難も災難よ。だってあいつら……。おれ、もうあいつらに近づきたかぁないよ」
「へぇ」
 立ち去る今井の背を見送り、私は手の中の鮫の歯を見た。
これを見ていると吉岡の顔を思い出す。
鮫、つながりか。
そんなことをぼんやりと思いながら講義を受けるとノートには、一言「鮫」と書いただけで終わっていた。
あとで誰かにノートを借りないと。
立ち上がるとまた目に石が飛び込んで来た。
さっき私が拾ったのとほとんど同じ石、鮫の歯。
気になってそれを拾う。
また、落ちている。
拾う。
落ちている。
拾う。
……
「何やってんの?」
 聞き覚えのある声が私に投げかけられていた。
細面の三井だ。
他に2人、その後ろで煙草をふかしているが、吉岡は居ない。
「面白いから、この石」
 三井は「ふぅん」と言った。今井の「ふぅん」とは違う音だった。
「いつももう1人居るよね。今日は?」
「んー……」
 三井も口に煙草をくわえていた。
カチカチと何度かライターをならして火をつける。
「知らねぇや」
「そう」
 後ろでぎゃははと笑う声が上がった。
三井は何か言いたげな目をしていたがすぐに私から目を離した。
「じゃあね」
「うん、頑張って」
 いつしか私の両手には溢れんばかりの鮫の歯が乗っていた。
そして、私は講堂の中、1枚の大きなカーテンの前に立っていた。
その辺りが一番、鮫の歯が散らばっていた。
古ぼけたクリーム色の分厚いカーテン。
それを開くと床にはさらにさらに大量の鮫の歯。
「吉岡」
 綺麗に洗われた形跡のないガラス窓から差し込む光にぼやけて、薄い黄色に照らし出される灰褐色の脳髄。
やや乾いたむき出しの脳みそは微かに、細かに震えていた。
「あんたの身体、集めたよ」
 私は手にしていた両手いっぱいの鮫の歯を吉岡の脳髄の上にこぼした。
歯は脳髄に突き刺さる前に形を変え、それらから人間の姿が生まれる。
着衣一つ身につけていない、震えたままの吉岡。
「あいつらが、俺を……俺を……」
「喰ったんだね」
 私は着ていたカーディガンを吉岡にかけた。
しゃくり上げて泣き続ける吉岡の黒髪を撫でてやる。
「だから、あんた散らばったんだ」
 吉岡は声を上げて泣いた。
「ねえ、吉岡。私はあんたに同情しないよ」
 あんたは鮫なんだ。
あんたに仕えていた三井も鮫だったんだよ。
他の奴らも卑怯かもしれないけど鮫なんだ。
弱った鮫は喰われる。
ただ、それだけのこと。
私は吉岡の髪を撫でていた手を止めた。
窓の外、冷たい雨が煙る中を、鮫が3匹泳いでいく。




目次に戻る