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川 1

一、 濁り川
 強い雨を風が連れ去り、磨かれた空は吸い込まれそうな青に輝いていた。
日が沈む前に、嵐が過ぎ去った。
田を打ち、竹やぶを叩きのめした鋭い爪痕が生々しく、それでいて艶やかに僕の目を捕らえて離さなかった。
 いつもは静かな流れの川は一番見る影も無い。
輝く空とは対象にごうごうと逆巻く濁流が目に新しい。
その川の土手に、一人の老人が佇んでいる。
「じいちゃん」
 僕は彼に話しかけた。
「じいちゃん、危ないよ」
 足下を20cmも行かないところで、茶色の土まじりの水はうなり声を上げている。
じいちゃんは、僕を見ると微笑んだ。
かつてはたくましかったその身体も顔と同様、深い皺を刻み、骨を包む皮は日に焼けて黒光りしている。
「昔な、このか(川)でけっしんだおごじょ(死んだ女の人)が居ったがよ。美しか人じゃった」
 静かに、静かな声で話しているというのに、じいちゃんの声は濁流に負けず僕の耳に届く。
「台風な一昨日の日だったけど、かん水(川の水)はこうやってごうごうと流れていた。そんヤッな(その人は)、そん汚れた水でけっしんだがね。」
 じいちゃんは水に目を戻していた。僕に言っているのか、それとも独り言なのか。
ゆっくり、ぽつり、ぽつり、と短くて白いヒゲのはえた顎を動かす。
「夕方でん、一向に帰っこなかった。ほしたなぁ、ちんけか(小さい)おごじょが泥水で汚れて泣けっせぇ(泣きながら)帰っくるじゃないか。『お姉ちゃんがかせてくれた(助けてくれた)。でもお姉ちゃんな流されてしまった』とね。皆な慌てて、かを(川を)探した。そんおごじょは、下流でめひかった(見つかった)。泥だらけで、眠るようだった」
 川の中を凝視しているじいちゃんが、いつしか飛び込んでしまいそうな気がして、僕はじいちゃんに声をかけた。
少し、慌てていた。
「じいちゃん、帰ろう。お母さんが心配するよ」
 ほうじゃなぁ、とじいちゃんは頷いた。
また穏やかに笑うと、ゆっくり、ゆっくり、僕と濡れてぬかるんだ畦道を歩き始めた。


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