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川 2

二、    大きな家
 「はい、ごめんなんせ」
 じいちゃんは、そう一言断ると里の一番大きな家に入っていった。
じいちゃんの家の周囲とは違い、荒れた田畑が周囲に広がっている中にこの家は立っていた。
家は、田畑同様に廃屋だ。
しかし、じいちゃんの手入れによって誰かが住んでいそうな美しい景観を保っている。
庭はのうぜんかずらのくすんだオレンジ色の花がたわわに垂れ下がり、大きな白と桃色の芙蓉の花が見事に咲いていた。
台風でちぎれとんだ花もあるが、何よりも埃をさっぱり洗い流して一層色鮮やかだった。
「ごめんなんせなぁ」
 慣れたようにじいちゃんは中に上がっていく。
照りつける日差しの下とはうってかわって、廃屋の中は目が慣れるまでは暗闇の様で、僕はしばらく土間で目をこすっていた。
廃屋の中の空気は湿り気を帯びて冷たく、外からやってくる風と混じってぬるくなった。
じいちゃんはしばらく家の中を歩き回って、雨漏りがないかどうか見ていた。
僕は鮮やかな庭に面した縁側に座り、輝くそれを見ていた。
じっとりと絡み付く暑さが、団扇をあおぐ手を速める。
 家の中を見ると、本当に誰かが住んでいるように見える。
青い朝顔模様のついたても、日に焼けているだけでちりはほとんど降りていなかった。
「ここに居たか」
 じいちゃんは僕の隣に腰をかけた。
「たもんなさい(食べなさい)」
 節くれた手の中に、切り取った水瓜を一切れ僕に渡した。
「ありがとう」
 清水で冷やしてあった水瓜は、黒々とした種を輝かせていた。そっと静かな甘さが口に広がる。腕に滴った水瓜の汁を舐める僕の横で、じいちゃんも水瓜を口にする。
「ここに住んじょった家族は、も帰っこないのじゃっが……」
「そうなの?」
 じいちゃんはゆっくり頷いた。
「ここには、おごじょな(女の子が)従弟とそん祖母とで住んじょったがよ。
元はお前みたいに都会に住んじょった子じゃっが、親ん都合でここに居たとよ。
もう、おいがお前よっかん、ずっとちんけとっじゃ(ずっと小さいときだ)」
「その子、どうしたの?」
「けっしんじまった。年々肺ん病がひどくなってよ」
 じいちゃんは寂しそうに言った。
そうして、いつもの通りぽつり、ぽつりと語ってくれたのだった。


 その子は、真刀まさいと言う。
小さくとも鋭く切れる小刀、と言う名の通りの子だった。
初めて彼女にあった里の子は、自分だっただろう。
一目見た時、なんて綺麗な少年だろうと思った。
そう。
初めて見た時、真刀は少年の姿をしていた。
だから、里のガキ大将は真刀をこづいた―――子供の仲間に参加するための儀式のようなものだ―――のだが、逆にやり込めてしまった時には誰もが真刀をガキ大将に仕立てたもんだ。
当然、少女と分かったときには、あのガキ大将は驚いて腰を抜かしていた。
その真刀は成長するに従って、里の誰よりも美しくなった。
しかし、真刀を美しいと褒める若者は居なかった。
真刀が肺病だと知れ渡り、だんだん悪化の一途を辿っていると、里の者が敬遠していったからだ。
 かえってそれが真刀の病には良かったのかもしれない。
後から知らされた事だが、真刀の余命はこの里に来てから四年と言われていたのが、結局十二年生きられたのだから。
 真刀は家からあまり出る事がなくなった。
常に接触があったのは自分と、真刀の従弟の忠孝と忠幸。そして真刀の祖母、絹ぐらいだった。
この朝顔のついたての向こうに蚊帳をつり、そこに寝ながら真刀が何を考えていたのか。昔は知りたいと思っていたが、今はもういい。
ただ、調子のいい時には団扇をあおぎながら浴衣姿で、こうやって縁側で涼んでいた。


 「ごめんなんせぇ」
 少年は土間で大声を張り上げた。
腕にずしりと重い縞模様の実を抱えていて誰かが顔を出すのを待っていた。
家の奥から乾いた咳が響き続けている。
「お前は―――」
 咳がやみ、出てきたのは少年と同年ほどの子供だった。すっきりとした目鼻立ちはこの里の者ではない。
その子供は少年を見て、出てきた事を後悔したような表情を浮かべた。
「これ、水瓜。今年はおいしいよ。たもんなんせ」
「……」
「元気になったら、ほいと(また)遊ぼうな」
「……うん」
 子供の手にまるまるとした水瓜を渡し、少年は外に出ようとした。
初老を少しすぎた女が立っていた。
日に焼けた肌のくっきりとした眉の下、厳しい眼光が少年を見ていた。
「おやっとさぁ(こんにちは)」
 少年は居心地の悪さを感じながら遠巻きに会釈する。老女はにこりともしなかった。
針のような視線の中、いたたまれなくなって走ってその敷地から抜け出す。
「あ、和正あんにょ(兄ちゃん)。ばっぱん(おばあちゃん)な行ったきたでしょ?」
 家の前で小さな弟と遊んでいた子供が少年に呼びかけるが、彼は手を振っただけ、走って去っていった。


「今でん(今でも)、ここにおいよな気がするよ(居るような気がするよ)」
 じいちゃんは、ふぅん、と頷く僕を見ているのではない。
寂しそうに細めた目がそう言っていた。
熱い風に乗って、じわじわと油蝉が声を荒げて鳴いていた。

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