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川 5


六、    空の川
 ラジオはざらざらの砂嵐と一緒に天気の情報を流している。
木造の家は強い風に晒されてぎしぎしと音を立てているのに、家の中はむっとする湿気で息苦しいほどだった。
雨戸が膨らんでは硝子の入った格子に身体を打ち付ける。
時々、瓦が落ちて割れる音が微かに聞こえた。
じいちゃんは寝返りを打った。
湿り気を帯びてじったりと重くなったせんべい布団は寝にくいのだろう。
じいちゃんは何度も何度も寝返りを打った。
「じいちゃん」
 何だ、と気配が僕を見ている。
「眠れない?」
「……」
 じいちゃんは息をひそめている。
「酒、飲もうか」
「……」
 僕は立ち上がろうとした。
黄と橙混じりの光を放つ電灯へと手を伸ばす。
「しっ」
 じいちゃんは鋭く、息を吐いた。
「嵐ん音が聞こえなくなる」
 そう言われては仕方が無い。僕は寝転がった。
逃げ場の無い溜まり池の水のような淀んだ空気が体力だけを奪っていく。
外はさぞかし轟音だろうが、家の中は時計の音がゆっくりと流れていた。
じいちゃんはまた寝返りを打った。小さい頃のように優しい眼差しがこちらを見ているのが分かる。
「眠れないか」
「うん」
 じいちゃんは小さく息を吐くと、口を動かした、
「前ん話、覚えてるか。かで(川で)流されかけたちんけかおごじょ」
「覚えてるよ」
「あんた(あれは)お前の祖母じゃ」
「そうなの?」
「ああ。おいの五番目の妹じゃ。七、八つの……」
 じいちゃんはそれきり黙ってしまった。
何が言いたかったのだろうか。
優しい口調でその真意は掴めない。
息苦しい暑さのせいもあって考えがまとまらない。
目眩がしているのか、ふわふわとした感覚が身体を包む。
いつしか僕は寝付いていた。


 結局、嵐は夜半過ぎから翌日の昼過ぎまでかかりながらすぎていった。
なんと無惨な爪痕だろうか。
夏の強い日差しは透き通る天を通り、暑い空気は息苦しい。
濡れたばかりの大地は水面のように輝いたが、稲はほとんど泥水につかり、山の側では所々土砂が田に流れ込んでいた。
飛んで砕けた瓦が庭木を打ち据えている。
あの猛烈な台風が過ぎ去って、既に3日になる。
雲一つなかった空にようやく白い雲がぽかりぽかりと浮いている。
里の者がぬかるんだ土に足を取られながら田畑から土砂を取り除くのに精を出していた。互いに協力しながらの作業は順調に進み、ごうごうと濁水を流し続ける川以外はもうほとんど変わりはないと言って差し支えなかった。
目のくらむような外とは対照的に、薄暗い家の中で乾いた咳が響く。
「忠孝、忠幸」
 若い娘が年下の従弟の名を呼んだが返事は無かった。
ひゅう、ひゅう、と白地に青い朝顔の浴衣の胸が上下する。
「薬が……」
 娘はしばらく咳き込むと、座卓の上に一枚の紙を残し日傘を手にした。
長い事白昼に身体を晒していないために、強い日差しは体力を奪う。
それでも久方ぶりに外に出る、という事で青い鼻緒の下駄は楽しげに音を立てた。


 ほぉー、ほい。と呼び声が夕闇に響く。
ごうごうと流れの速い濁流が流れている川に沿って、人々は上流に下流にと動きながら呼び声で連絡を取っていた。
ほぉー、ほい。
居たか。
うんにゃ、居ない。
ほおずきのような提灯が揺れ動く。
「あったぞ、こっちだ」
 その声は下流で響き、どよめきを起こした。
上流に居た者たちも下流へと急ぐ。
その中に、和正も居た。
 誰よりも速く行こうと整えられた道を外れ、夕立に濡れた草に足を取られながらも走った。藍染めの浴衣が、足にまとわりつく。
河原の草に停まっていた蛍が淡い光を放ち明滅しながら、朱と紫、紺の空へと舞い上がった。
和正は人だかりをかき分け、中央へ向かう。
時が凍り付いたように静まり返った中央で見慣れた坊主頭を見つけた。
「忠孝、忠幸……」
 そう呼びかけて、和正は止めた。
二人の明るかった少年の表情は能面のようで、魂を抜かれたように細い足を河原の石の上に落としていた。
彼らの横で、老婆―――忠孝、忠幸の祖母、絹の姿があった。
ごま塩の頭を振り乱し、あの品の良く冷たい老女ではなく、鬼女のように泣いていた。
そして、三人の前には人形があった。
伸びやかで、形の良い腕の大きく裂けた傷口に泥。
白い。黄土の色に咲く、くすんだ青の朝顔の花から覗く泥に汚れた白い足。
夜の闇から抜け出たように黒々と濡れた黒髪は、河原の石に絡み付いている。
「和正ぁ……あんにょ……」
 うつろな目で、忠幸が和正を見つけた。幼い少年の手が、和正の浴衣の裾を掴み、彼を引き寄せる。
「ま……まさっ……い……真刀姉ちゃ―――」
 冬の寒さに凍えるように忠幸の歯の根は噛み合ない。
もうすぐ夏だというのに、和正の胸は氷が張り付いたように冷たい。
ずっと一点を見つめていた忠孝の目からぽろっと雫が溢れた。
忠幸は喉も裂けんばかりに泣いた。
忠孝までが触発されて意味の成さない叫びを上げる。
「あっ……あんにょ、和正あんにょ……っ」
 小さな少女が泥だらけで和正に抱きついた。
「すんもはん(ごめんなさい)、すんもはん!」
 年離れた妹が大声を上げて泣いた。
「おとろしかったよ、かがごうごうで、あい(足)が滑ったど。ほしたら、ふとか家ん(大きな家の)姉ちゃんなとこんで(飛び込んで)……!」
ここまで来て、和正はようやく理解した。
だが、泥に汚れ、濡れて身体に張り付いた浴衣のままの妹の肩を強く掴んでいた事には気づいていなかった。
「和正ぁ、和正よぅ……」
 髪を振り乱した老婆が和正の足にすがる。
和正は絹が、自分を快く思っていなかったあの絹が、自分の足にすがっている事が恐ろしくなった。
「和正よう、こいがこげなことになるのだったら、お前に―――」
 絹の言葉を終えないうちに、和正は人だかりを抜け出た。
妹の泣きながら兄を呼ぶ声が遠ざかっていく。
夕立が過ぎ去った空は鮮やかな朱の光を最後に投げかけ、小さな星が満天を彩り始めていた。



じいちゃんは嵐の後、夜空を見上げる。
何よりも透き通る夜を眺めて時を過ごす。
「じいちゃん」
 僕がじいちゃんに呼びかけると蛍は何かを感じ取って星の欠片が空に上るように舞い上がる。
「帰ろう」
 僕はじいちゃんの大きな手を捕まえた。皺だらけの手は力なく抵抗しない。だが、引っ張ると力強く引っ込める。
「待っちょいくれ(待ってくれ)」
 じいちゃんは空を見上げたままつぶやくように懇願する。
「もちっと……もちっとばっかい、待っちょいくれ……」
 ずっとじいちゃんが凝視している夜空は、星に彩られ、白く大きな筋を一条作っていた。
僕もじいちゃんと同じく息をこらして空を見上げている。
そこにだ。
すっと白い小さな星が白い空の川へと飛び込んだ。
鋭い刃を滑らせたような軌跡を描いていた。
「行っか」
 何呼吸か置いて、じいちゃんは僕の手を引く。
ゆっくり、ゆっくり。
じいちゃんと僕は畦道を歩いていく。
じいちゃんの手は温かく、心地よかった。

じいちゃんのささやかな精霊会はこの年を最後に、二度と開かれる事は無かった。
代わりに僕が空を見上げる。
白い空の川を見ている。
ただ一度だけ、2つの星がほとんど同時に川へ滑っていったことがある。
鋭く一つ、その後を追って大きいのが空の川へ潜っていった。
その時やっと、僕の目に降る雨は終わりを迎えた。
もう洪水は、起きないにちがいない。




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