川 5
五、 祭り
じいちゃんと僕は、実際には血のつながりは無い。もちろん、祖父と孫ではないという意味だ。
じいちゃんの妹が、僕の母方の祖母である。
もっとも、そのじいちゃんの妹、僕の祖母が亡くなったのは僕が生まれるよりも前だったのでじいちゃんが本当の祖父のようだ。
もし、じいちゃんが僕の本当の祖父だったら、僕はどうしただろうか?
多分、それでも今と変わらずにこうして過ごしているに違いない。
「祭り、行っか?」
畑でとれたばかりの水瓜はずしりと重く、甘くぬるい汁が喉を伝う。
表の通りを、浴衣を来た小さい子供達が歓声を上げて通り過ぎていった。
乾いた下駄の音が聞こえなくなる。
「行きたい」
「そうか」
ヒグラシがじじじ、と鳴き始めるともう空は鮮やかな橙色に染めている。
そうしてようやく涼しい風がわずかに風鈴を揺らすのだ。
風が無いとはいえ、湿気もほとんどなく、暑さだけだからずっと過ごしやすい。
身体を動かさなければ汗はかかないからだ。
僕がもう一切れ水瓜を食べる間、じいちゃんは紺と青の縞の浴衣を着てきた。
焼けた肌と広い肩にはよく似合っていた。
「行っど」
僕は縁側から庭に種を吐いた。
黒い艶やかなしずく型の種はやがて蟻が持っていくだろう。
下駄を引っ掛けてゆっくりと鳴らしながら歩くじいちゃんの横を僕が歩く。
むき出しの足に、石の蓄えた熱が暖かい。
じりじりと差す日はむき出しにした腕を焼く。
社のある森は田んぼの中にこんもりと高く、夕日の中黒かった。
その中でちらちらと光が踊り始めている。
屋台からの呼び声が始まりはじめていた。
「兄さん、兄さん。こていかんか?(買っていかないか?)」
様々なお面が並ぶ屋台で僕は呼びかけられた。
和紙で作られたお面に同じ物は一つとしてない。
高いのだろう、と僕が通り過ぎようとするとじいちゃんは一つ一つ手に取って眺めていた。
「いつもいつも、こていただいてあいがとうなぁ。おやっとさあ(お疲れ様です)」
じいちゃんはそっと屋台の人に頭を下げた。
買ったのは、一番恐ろしい形相をした青鬼の面だった。
僕はおまけでくれたひょっとこを額のところに括りつける。
「じいちゃん、今までどんなの買ってるんだっけ?」
正直なところ、じいちゃんが毎年お面を買っているなんて知らなかった。
ここには春か夏にしか来ないが、あの家にあるものを僕は全部把握しているつもりだった。
じいちゃんは自分の青鬼の面を軽く振ってみせる。
「そういう青鬼? いままでずっと?」
「じゃっじゃ(そうだ)」
答えながらじいちゃんはお面を自分の顔に括りつけた。
穏やかな、物静かなじいちゃんの顔が今だけ恐ろしげな青鬼となる。
老いた今でさえ、小さな子供達はじいちゃんを見て避けるほどだ。
じいちゃんの若い頃、こんな物をつけたとしたらどんなに恐ろしかっただろうか。
がっちりとした身体。
年を経て痩せ細ってなお、たくましさの面影を宿している。
「盆の祭りになぜ面をかぶるか知っているか? 盆には死んだ者が帰ってくる。
でも生きている者は死んだ者の名を呼んでも呼ばれてもいけない。だから、誰なのか分からないようにかぶる」
お面でくぐもった声は、初めて標準語をしゃべった気がする。
わずかに訛まじりではあるものの、僕の耳にすっきりと通り抜ける。
驚いて見ていると、じいちゃんは照れたのかそう言った。
「教えてもろたがね」
鬼の面をかぶったじいちゃんの表情は分からない。
並ぶ屋台の他、電球を入れられた提灯がほおずき色に輝き、列を成して社へ続く。
祭り太鼓を乗せた風に揺れてざわめきのようだった。
「昔は、本当に蝋燭じゃったよ」
だから、風ん強か日な祭りば大変だった。と続ける。
か細かった笛の音は音源に近づくほどに力強く、太鼓の響きは胸を腹の底から打つ。
流麗とは縁遠いような音調は、聞いていて面白い。
数人の子供に囲まれ、乞われるまま踊りを教えている中年の女性はじいちゃんに会釈した。
じいちゃんもそれに倣い、したのかしなかったのか分からない会釈を返す。
櫓の上で、ここ一番の歌い手達が歌を歌い始める。
それに唱和して大人達は踊りの輪を作り上げた。
小さな子供が、若い父親に腕を取ってもらって飛び跳ねて踊る。
大げさな振り付けをして互いに笑っているのは、どんなにはしゃいでもはしゃぎ足りない子供達だった。
輪に加わらない者は焼酎をあおり笑っていた。
中には酔っぱらって、赤ら顔でにやにやしながら手だけを動かしている。
胸に、空に、よく響く声にあわせてじいちゃんは列に入った。
大きな手が、枯れ葉のように閃き力強く天を押し上げる。
輪は幾重にも櫓を囲んでいた。
じいちゃんはゆっくり、ゆっくりと中央の輪へ加わって、僕を置いていった。
表情の分からないじいちゃんは、この時誰と居るのだろう。
少なくとも僕ではなく、僕の家族ですらなく、どこか遠くの誰かに寄り添ってじいちゃんは盆踊りに参加していた。
遠巻きに見ている集団に混じっていると、昔から良くしてくれている近所のおじさんが僕に芋焼酎をくれた。
喉がはらはらと熱い。
弱か弱か、と笑われた。
一踊りして、じいちゃんがこちらにやってくる。おじさんはじいちゃんにも酒を振る舞った。
次の曲が始まっていた。
おじさんの愚痴につき合いながら頷いているじいちゃんは突然立ち上がった。
何か一言叫んで老人とは思えない速さで、走っていく。
おじさんは僕からもじいちゃんからも目を逸らし、静かに杯をあおる。
「真刀!」
じいちゃんはそう言っていたと思う。
僕はひょっとこのお面を顔にずり下げた。視界は狭まり、余計に薄暗い。
でも、これがいい。
じいちゃんの後を追う。
喉の奥が胃液のような酸味まじりの苦さで苦しかった。
祭りの夜、青年と娘は祭りからはずれ、少し高台になった森の端に居た。
皆、祭りに夢中になって彼らを見ていない。
縞柄の着物の青年は青い顔で金の角をつけていた。
白い天の川を模した娘は、白い顔、鋭い赤の縁取りの、金の瞳で祭りを見下ろしている。
異形の者達ではない。ただの祭りの面だった。
青年の面は青鬼、娘の面は白狐。
「なあ」
青鬼は狐に呼びかけた。狐は豊かな黒髪を揺らして振り向く。
「俺が臆病だっていうコッを知ってるだろう? じゃっで、お面つけたまんまじゃいば、許してくれよ」
娘が口を開く前に、彼は言いきった。
訛まじりの、それでも娘の里の言葉だった。
「一緒になろう」
そのまま時を固めたように娘はぽかんと口を開けたまま彼を見ていた。
面がその顔を隠す。
「あ、あたしは……病気持ちだ、ぞ」
娘の声は震えていた。しかしすぐに激高する。
「お前は知っているじゃないか。あたしは肺病だ!」
知っているよ、と青鬼は頷く。
「じゃあ、やめてくれ!」
娘の手が閃き、弾ける音が響く。
外れた青鬼の面を青年は拾い上げ、再びつけた。
「ほら、性格も悪いだろう。病も悪いんだ。だから皆から嫌われてるんだ。同情なんかするな」
「同情じゃなかよ。そいでも側に居たか」
青年はしずかに告げた。青鬼の面はひしゃげて泣き顔へと変貌していた。
「そのあたしと一緒になったらお前まで……き……嫌われてしまう……」
なんて張りつめた空気なのだろう。祭り囃子は遠かった。
「そん病な、ちょっとやそっとじゃうつらない。もし、うつるのじゃったらとっくの昔にお前の弟達せえも(弟達にも)、絹ばっぱんせえもうつっているじゃろう。もちろん俺にじゃて、うつっているはずじゃ。でも、平気じゃろう?」
娘は言葉に詰まった。が、すぐに首を横に振り、白狐が彼を睨みつけた。
「駄目だ。嘘だ。あたしをからかって楽しいか? 長い時間をかけてあたしを馬鹿にしてきたのだろう。この祭りにあたしを誘ったのだって、からかうためだろう! あたしはお前を信じていたのに!」
狐が噛みつき、鬼に咆えた。狐は、山犬とも呼ばれる。
本当の白い山犬のように、他人を警戒し、領域に侵入する者を排除しようとする娘。
その声は今までの気丈さは無く、泣いていた。
「なあ、聞いたてくれ」
青年は娘に呼びかけた。
「俺、お前のこっからかったことなかよ。こいからも、きっと俺なお前に嘘をつかない」
おだやかな青年の声が、太鼓の音にかき消されず、はっきりと響く。
「嘘じゃっち思っなら、俺を張り倒して踏みつくって帰っしまえばいい。ほんのこっじゃち思っなら、ここに居てほしいか」
娘は襟元を正して青年を見据えた。凍るような視線が、じっと注がれる。
「ありがとう」
ふと、その表情が和らいで娘は言った。その時、青年の顔から青鬼の面が外され、
ズビっと鼻をすする音と共に彼は目許をぐしぐしとぬぐっていた。
鬼の面とは裏腹な、穏やかな顔だが鬼の面のように泣き顔だった。
「こら」
娘はずかずかと青年に近づき顔を覗きこむと軽く青年の頭をはたいた。
「何でお前が泣くんだ」
普通は女のあたしが泣くんだろう? と娘は口を尖らせて言った。
「じゃっち、お前は泣かないじゃろ? 受けて貰えなかったら、どけんすろかいっちね(どうしようかってね)。―――あー、良かった」
「……」
呆れたように娘は肩をすくめる。
「鬼と狐の約束だ。破れば承知しない。頼むぞ、和正?」
「破らなかど、真刀」
白狐の娘の名は真刀。
青鬼の青年の名は和正。
若い男女が二人連れ立って歩く事が非難を浴びていた時代、ずっと寄り添っていた者の一組の名だ。