川 4
四、 山姥
山の中には鬼婆が居る。
鬼婆は子供が大好物で、勝手に山に入ってきた子供は捕らえて食ってしまう。
「和正、和正。お前、山にいたっきたか(行ったか?)?」
年頃の若い男達の間で、山に行く事が流行していた。
和正と呼ばれた青年は、自分を呼びかけた若者達に振り返った。
普段はあまり交流の無い、少し都会かぶれの三人だ。
「山菜採りの手伝いやれば」
和正は正直に答えた。
「嘘じゃろう? ほんのこっにそれだけでしかいたてきたコッなかのか?
(本当にそれだけでしか行ってきた事が無いのか?)」
三人のうちの一人、藤吾が和正のがっしりとした肩を叩き、笑った。
なんと下卑な笑いだろう。
和正は彼らとはつき合いたくなかった。
和正ほどの年ともなれば(もう少し若くとも)山には本当は何が居るか知っている。
当然、三人が「山に行く」と言っているのは山菜採りにではない。
「山姥に会いにいく」事をさしているのだ。
気取った里の若者はほとんど「山姥」に会いにいく。
それが習慣であるかのように口汚い親父どもは彼らに猥談を吹き込んだ結果だ。
「行たてこい、和正。天が垣間見ゆっぜ?」
矢之助が絡んでくる。
「天なら畑にでりゃいくらだって見らるっさ。どいてくれよ」
和正は矢之助の腕を払った。
「怖いんだろ」
「そうか、怖いのか和正は。可哀想にな」
矢之助と藤吾が和正を挑発する。
「お前だけだぜ、“天女様”にお会いしてなかのは」
事実、和正と同年の青年達はかなり興味津々でこちらを伺っているのが分かる。
藤吾達のようにあからさまではないが、その目にはもううんざりだった。
「ああ、そうかい」
肩に担いでいた酒樽をもう一度担ぎ直すと、和正は行こうとした。
矢之助と藤吾に混じって都会かぶれの最後の一人、喜一がこちらを野次ってくる。
「またお嬢様のとこかよ! あの病みおごじょがそんなにいいのか?」
そう言われた時、和正の息は一瞬静止した。
「病みおごじょとゆん!(病み女と言うな!)」
そう言えば良かったのだろう。しかし、気恥ずかしさが先立ってしまった。
「うっぜらしっ。行きゃばいいのだろう、お前達のゆ通いに!」
矢之助と藤吾が歓声を上げた。遅れて、喜一がはやし立てる。
「おう、待っちょいるからな」
和正はその言葉を背に駆け出していた。
里で一番大きな家の土間に上がると、「ごめんなんせぇ!」と大きく声をかけた。
「ここに注文のしょちゅ(酒)、置いておきます」
そう一言付け加えて和正は行こうとした。
「和正、和正。ちょっと―――」
若い女の足音と声がしたが、和正は振り返らずに駆け出した。
薄暗くなる中、山の方へ。
小遣いとして貯めていた小銭がちゃりちゃりと袂で鳴っていた。
山道から外れた山小屋の前で、男が一人煙草を飲んでいた。
酒臭い。
「よお、和正。いっ来っかと思っていたぞ」
じいちゃんは山道を少し外れると、緩やかな坂を下っていった。
僕もその後ろについていく。
夕立で柔らかくなった土には、簡単に足下をすくわれてしまう。
下草の踏まれる、青臭い匂いが涼しい山の空気に混じる。
僕がもたもたしている間にじいちゃんはしっかりとした足腰で、斜面を越えた。
夕日が朱色に空を染め、その光の中にじいちゃんが僕に見せようとした物があった。
小さな空き地の焼けた木の残骸。
もうほとんど何があったのか分からないほど草が生い茂り、木の炭の破片が転がっているだけだ。
ちょろちょろと小さなわき水が空き地を横断している。
「ここ、何?」
じいちゃんはそっとしゃがむと何か石のような物を拾った。
「こいを見っみなさい」
渡された物は、焼けこげた皿の欠片だった。
「皿だね」
じいちゃんは頷いた。僕はじいちゃんの話を待っていた。
「ここには―――なんち言えば分かりやすいのか、売娼婦がおったがよ」
「売娼婦? ああ、売春婦ね」
「浜子ち言う名のおなごでな、間男と一緒に住んでおったが」
じいちゃんは僕の目を見た。言っている事が分かるか、と尋ねたいようだ。
もちろん、僕だってこの歳だ。えばって言えることじゃないが分かる。
「こんなところで商売になる?」
「昔はここにも大勢にせ(若者)がおったが。そいが目当てじゃ」
「ふぅん。じいちゃん、来た事ある?」
じいちゃんは頷いた。あまり聞きたいものじゃない。
「どうだった?」
「やってない」
僕は予想外の返事に驚いた。しかし、なるほど。だからこうやって僕をここに連れて来れるわけだ。
「ただ来たばっかいじゃ」
「ふぅん」
別にじいちゃんの艶話が聞きたかった訳じゃない。
でも、ここに連れてきた意味が分からない。
「おなごに養ってもろたなんち、男のすることじゃなか」
じいちゃんはそれだけだ、と言うと山道へ戻っていった。
蝉の声が山の木々に吸い込まれていく。
和正は通された部屋の隅で水の音を聞きながら震えていた。
薄汚れた杉板のついたての向こうで浜子が何をしているのか知りたくもなかった。
つい先ほどまで浜子は里の男と抱き合っていた。
その白い肉と浅黒い肉が絡まっていたのを和正は見てしまった。
異臭と吐き気を覚え、通された土間から抜け出ようとしたが間男は笑って彼を離さなかった。
水の音が止み、湿った白い足で浜子は姿を現す。もういい歳であろう。
和正の母親より少し若い程度だった。
ぼってりと膨らんだ身体は天女というより仏の坐像に似ている。
紅を引いたように赤い唇を横に引いて、浜子は和正の隣に座った。
「あんはん……なんどすえっけ、名前……?」
着物の裾をたぐられて、和正は身を縮める。いますぐにでも逃げ出したかった。
どこの言葉だろうか。ゆったりとした物言いが蛇のように耳朶に絡み付く。
「和正」
短く答えるだけの青年に、浜子は優しく笑った。
「ああ、あんたが和正なの。あの莫迦な都会かぶれから聞いとるよ」
日に焼けた頬から首筋へと白い指が辿る。決して、白魚とは呼びがたい指はひやりと冷たい。
「好きな娘はへえまんねんかぇ?」
浜子の問いに和正は目を逸らす。夜に泳ぐ銀の龍の白い背を思い出したからだ。
「大切に、幸せにしておあげやす」
彼女は褐色の首筋に一つ唇を落とすと彼を立ち上がらせた。
若々しい鹿のように山を下っていく青年の後ろ姿を見送って、売娼婦はまた淀んだ水の生活に戻っていった。