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虹 1

 空に虹がかかる。
灰色ともうす青ともつかぬような空に、風になびき裂く長旗に似た光の帯がかかる。
もう私の目がその鮮やかさを捕らえる事はないが、心にありありと浮かび上がるのは幼い頃に丁香と見た虹だ。
もっとも古いその虹は、今にもすぅっと空に溶けるようでありながら、祭り長旗のように優雅に輝いて私たち二人を見下ろしていた。
私と幼い丁香は互いの温かい手をつなぎ、一心不乱に仰ぎ見る。不思議な光が空から消えるまで。
 もう少し大きくなると、私は庭に水をまいて小さな虹を作った。
熱い日差しに背を向け、冷たい井戸水を汲みいれた如雨露を振りまくと、ささやかな虹が生まれた。
空にかかるのを待たずに見られる私の虹をあの子は見なかった。誘ったのに。
 しばらくして大きくなると、私は空を見ることもなく、庭に水をまくのもしなかった。
私は故郷を出た。
虹を放つ石を持つ男について、村を捨てたのだ。
都にある虹の光を夢見ていた。
 数年して故郷に帰ってきた時、あの子はにこにこと微笑んで空を指差した。
「ねえ、七彩ねえさん。いい虹が出てるよ」
 昔と寸分変わりなく、無邪気に私に微笑みかける。
穏やかな、あどけなさの残る笑み。
だから私は彼女の手を引いた。手を引いて、言った。
「ねえ、丁香。私ね、虹の根元を見てきたの。丁香も見たい?」
 あの子、丁香は頷いた。
夢見る子供のままに、そんなふうに頷くからどうしようもなかったのだ。

 丁香は私の母方のいとこだ。
丁香の母親は都の将軍へ嫁いだが、肺を患って実家に帰ってきた。
そのときについてきたのが幼い丁香だった。
とはいっても、私と丁香は八ヶ月しか離れていない。ほとんど双子のように育ったのだ。
 いとこ同士であるが故にか、面差しも似ていると言われる。
でも、私は丁香のように泣き虫でもなければ、お人好しでもない。
食べようとしていた飴に泥を塗られればそいつを追いかけまわしたし、やり返した。
丁香はおろおろと泣くばかり。
気づいた大人がそれを取り換えてやり、いたずらっ子を叱るのだ。
勝ち気な七彩、おとなしい丁香と言われた。
よく村の子供たちにいじめられたのはやはり丁香のほうだった。
 そもそも丁香は何をやらせても愚図で、走れば足は遅いし、木登りは下手で縄跳びも出来ない。
それから素っ頓狂なことを言う。
「虹は龍がお出かけするときの姿なのよ。だから、虹の根元には龍のすみかがあるんだって。わたし、行って龍に会ってみたい。あんなにきれいな龍ならきっと優しいもの」
 丁香がこういう夢見がちなことを言うと丁香よりも幼い子供たちでさえ笑った。
「龍なんてどう転んでも野蛮だ。優しいふりをして、丁香なんてちびは食べられてしまう。虹の根元には龍のすみかなんじゃない、桃源郷があるんだ。桃源郷で腕の長い仙人が友人と酒を飲んだり碁を打ったりしている。碁の相手は聡い妖仙だったり、虎人だったり。仙人がそうやって悪いのを相手に碁をうっているからこそ、悪いやつらはいつまでも桃源郷に釘付けになって外を荒らさないんだ。昔から、昔々から言われてるだろ?」
 都の、それも将軍の娘というのにあまりに出来損ないの丁香は村の子供のいいからかいの的だった。
そこに大人たちが、機織りを覚えさせれば飲み込みが早い、一を語れば五を悟る、とちやほやすれば当然あっという間にいじめの的になった。
 最初は丁香をかばっていた私もだんだんに嫌気がさした。
機織りの目の揃いは私のもののほうが正確で美しく、都へ売ればずっと高く売れた。
丁香が五を悟るときには私は七も八も理解できた。
薬草の覚えだってずっと正確で、算術さえ私は同年代の子よりもずば抜けてできたのだ。如雨露で虹を作ることも先に見つけたのは私だ。
私が何よりも悔しかったのは、丁香と私は大抵同じような格好をしたが、祝いの場ともなると歴然とした差をつけられたことだった。
丁香の着物は常に新しく都の良い布で仕立てられていたにも関わらず、私はいつもそのお下がりだったのだ。
私の方が身体が大きかったのに。
何よりも腹が立ったのは、その差に対し丁香が大人たちに異を唱えなかったことだ。
さも当然とした様子で身に衣装をまとい、頬に紅を差す。
牛馬に引かせた車に乗って、自分だけ遠出するのだ。
どうして姉妹同然と育てられているのにこんな差をつけられるのだろう、と私はいつも考えていた。
私の方が優秀で、私の方が美しいのに。
そして最後の結論はどうしても"後ろ盾"しかなかった。
所詮、私の父は入り婿で特段の財産や力があるわけでなし、あっちはなんと言っても将軍さまだ。
大人たちは丁香をもてはやすことで、将軍さまのご機嫌をとろうとしたのだ。 
 私はそんな村が情けなくて、腹立たしかった。
丁香が愛されれば愛されるほど、憎しみが募る。
それがふくれあがったとき、行商の男に出会った。
この男も丁香の"後ろ盾"を目当てにしていたのだが、男は輝く透明な石を私にも見せた。
太陽の光を浴びて、虹の光を生み出すその石は金剛石というものだと男は教えてくれた。
親指ほどの大きさで、途方もない値の石だった。
「きれいな石ですね」
 丁香は困ったように微笑んだ。
「でもわたし、虹は空にある方が好きですから」
 その答えに、なんて愚かしい断り方をするのだろうと腹が立った。
いつ出るか分からない虹を待つより、太陽の光に当てればいつでも虹が見える金剛石のほうがずっと素敵だ。
空にあって眺めるだけ虹より、手中にある石は金さえ積めば手に入る。
金は力だ。
私は悔しくなった。
丁香のように私にも金があれば、金剛石が買えたのに。
私は無力だ。
 去って行く行商の男に村はずれで追いすがった。
追いすがって、私を連れて行くように頼んだ。
これ以上、丁香の嫌味ったらしい性分を見ていたくなかったからだ。
丁香を見ているだけで胸が焼けつくように苦しい。
龍の炎に焼かれる思いだった。
外に出れば、この丁香にすがる惨めな村の男どもなんかより誰かずっといい人が私を欲してくれる、と夢を見ていたのもある。
結局、そんな夢のような話はなかったが。
 行商の男と別れ、数年ほかのいろいろな男を転々とした私はこっそりと故郷に帰った。村は何一つかわっていない。
農業をするばかりの村だ。
 家を窓から覗くと、丁香は処女だけがつける額飾りをまだつけて機織りをしていた。
そろそろ二十を過ぎる頃合い、行き遅れだと言うのにまだ妻問いの一つも受けていないのだ。
私はあきれた。
あきれたと同時に、笑いがこみ上げてきた。
確かに後ろ盾の強い娘だ。
だが、後ろ盾が強いだけで意気地のない愚図の娘はどうみても厄介ものだ。
男に欲されない女など、老いればただの無駄飯食い。
笑いが止まらない。
かつて村の大人たちがちやほやしていた子供は、無駄飯食いの卵だったのだ。
 私は家に帰った。
両親が叱り、部屋への謹慎を告げるのは予想していた範囲だった。
外聞の悪い両親が慌てふためいてあちこちの村へ文を送っているのが離れから見える。
出戻り娘は外聞が悪いだろう。
どこかに引き取り手がいないか打診しているのだ。
私はそれを鼻で笑った。
そのように派手に動けば、小さな村にはすぐに伝わって興味本位の男たちが私を見に来る。私はしおらしくうつむき垢ぬけた都歌を歌えばよいのだ。
哀れな、人買いに騙された娘がようやく家に戻ってこられたというのに両親は冷遇する。
その筋書きを演じていれば、男の一人や二人を捕まえるのは不可能ではないというのは嫌というほど知っている。
私が放浪の間に覚えた歌を奏でていると、庭に出ていた丁香がよって来た。
そして微笑んで、東北の空を指差した。
「ねえ、七彩ねえさん。虹がでているよ」
 それが久しぶりに見た空の虹だった。
丁香と二人並んで空を見る。
かつて双子のように、姉妹のように育った私たちはこんなにも違うのだ。
私は磨かれて艶やかに美しくなった。
これはこの村の男たちでさえ評価してくれた。
それに比べ丁香は地味だ。
年相応に美しくなってきているものの華やかさというものはない。
「久しぶりね、こうやって七彩ねえさんと虹を見るの」
 丁香は無邪気に喜んでいた。
「丁香、まだ虹の根元に行ってみたい?」
「ええ、行ってみたい。きっと、遠いだろうけれどいつかは必ず」
 まっすぐに微笑む丁香を見ていると、ふと覚えのある感覚が胸によみがえった。
「ねえ、丁香」
 思わず手に取った、丁香の手は温かだ。
「私ね、虹の根元を見てきたの。丁香も見たい? この村から半日で行ける東北の山のまたに根元があったわ。そこなら、近いもの」
 丁香はうれしそうに頷いた。
「今度の祭りの夜ならとうさんたちも家を空けるわよね。そのとき、行きましょう。だって今は私、謹慎中だから」
 祭りの夜、月明かりの下で馬を駆り、たどり着いた東北の山間で私は丁香に石を振り上げた。
私に額を割られた丁香は驚いていた。
そしてそのまま丁香は、"虹の根元"に飲み込まれた。
 荒れ果てた地に口を開けた、ごうごうと風が吹く音しか聞こえない奈落の裂け目。
こんなところ、"虹の根元"なわけがない。
 さよなら丁香。


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