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虹 2

「お母さん、虹が出てるよ」
「馬鹿なことを言うものじゃないよ。冬に出る虹はあまり良くないんだから」
 漬け物のための根野菜を凍るほど冷たい水で洗っていた末の娘がすっかり赤くなった指先を息で暖めながら「本当だもの」と口を尖らせた。
「本当なんだよ、お母さん。たまには一緒に見てよ。ほら、東北の山のまたのところ」
「はいはい。分かったから、ここはいいから機織りの続きをしてなさい。春の祭りまでに仕立てまでしなきゃいけないでしょう」
「はーい」
 丁香が失踪し、私が家を継いでから三十年近く経っていた。
家を継ぐため近隣の村から入り婿を貰い、その夫とのあいだに九人の子供を生んだ私は丁香のことを思い出す暇もなくその時間を過ごしてきた。
空を見上げる余裕もなく、丁香が失踪したことで潰えた将軍からの仕送りの穴を出来る限り塞ごうと、農作業に精を出し、夜は糸を紡いで機を織ってきた。
その間に四人いた娘のうち三人は嫁に行ったし、五人いた息子は一人が病気で死んだけど、他は元気に育って嫁をもらい、出稼ぎに出てくれている。
「七彩ねえさん?」
 不意に懐かしい呼ばれ方をして、私は振り向いた。
若い娘が立っていた。
身なりこそどこかの女中だが、良い品の着物だということは見るだけで分かる。
派手ではないけれど、見事な宝玉の飾りを身につけていた。
「どちらさま……」
 娘は額をそっとかき分けた。
古いが痛々しい傷跡が額を醜く割っている。
「七彩ねえさん」
 懐かしい口調の娘に私は息を飲んだ。
「っ丁香……!」
「七彩ねえさん、あそこは確かに"虹の根元"だったわ。さすが、ねえさんは嘘をつかないね」
 丁香は、あのころのままの姿の丁香はそっと髪で額を隠す。
「虹の根元は、生きた人間にたどり着けない、桃源郷の入り口だった。ねえさん、わたしは、あのとき本当に死んだの。でも、桃源郷は龍のすみかだもの。龍はわたしを生き返らせて、女中にした。わたしは龍のそばで働くから、いつまでも昔のままなのよ」
 私は言葉が出なかった。
乙女のまま、美しいままの丁香。白魚のような指、桃の肌、豊かな黒髪。私が失った、若さ!
あのとき、あのときこそ奈落に身を投げていたら私も得ていたもの?
目を覚ました龍の炎が喉からほとばしる。
「なんでよ、なんでなのよ!?」
「ねえさん?」
 私は丁香に詰め寄っていた。
何年も何度もあかぎれてすっかり太くなった私の指。
白髪が混じりだし、皺が増えた私はなんと老いたことか!
「どうしていつもお前だけいい目をみるの? どうしていつも私じゃないの? 私ばっかり! お前はいつも私の分まで奪ってしまう。どうして私はお前じゃない。どうしてお前はいつも笑ってて、どうして私がその割をくわなきゃいけない? なぜ、私じゃないの? 私だっていいじゃない、いい想いしたっていいじゃない!」
「……」
 つかみかかった私に丁香はなされるがままになっていた。
丁香の身をかざる宝玉の首飾り、虹の輝きの肩布。
すべてが憎らしく、汚してやりたかった。
なめらかな絹の着物が音を立ててさける。
この織りの手触りは丁香のものだ。
クモの糸のように細い高価な糸でもすぐに分かってしまう。
ゆったりとした織りだ。
憎らしいほど丁香の織りだ。
昔のままの丁香の白いからだがあらわになった時、私の手は止まった。
「言ったでしょう、わたし、あの時死んだって。この傷ばかりは浅くないから、きちんとは治せないって龍は仰ったわ」
 右の腹から左の胸へ、赤い肉が口を開いていた。
ひどい火傷のように赤黒く、皮膚のないまま脈打っている。
「でもね、一番痛いのは、額の傷なのよ。いつまでもうずくから、だからねえさんに会いにきたの」
 丁香は私を見据えながら、身体を起こした。
「心配していたの。それは、ねえさんを恨まなかったと言えば嘘になる。でも、ねえさんがわたしを好いてないって分かってたから、恨むのをやめようとした。なんとかそうなるまで、こうやって数十年もかかってしまったけど」
「……恨めばいいじゃない。私を恨みなさいよ。悔しいでしょう、この七彩に財産どころか命まで奪われて。いつまでもいい子ぶらないで、恨みなさいよ。そうして闇に堕ちればいい。聖人君子ぶって、闇も見えない光あたる場所にばかりいるんじゃないよ!」
「わたしが恨んだら、闇に堕ちるまで恨んだら、ねえさんはそれで満足してくれるの?」
「ああ、満足さ! それこそ、お前が暗がりに転げ落ちるのを思うだけで私は救われる。暗がりで惨めに縮こまって、人の足音にすらおびえて、怒りながら暮らせばいい」
 丁香はしばらくその丸い目を瞬かせて私を見ていた。
その顔は、昔の私によく似ていた。
胸の奥に氷水をかけられたときの私の顔に。
でもその感傷はすぐに打ち破られた。
「……ごめんね、ねえさん」
 丁香は結局のところ私ではないのだ。
龍の炎に焼かれるほど思うことなど、この子は出来やしない。
「わたし……また、ねえさんの期待に応えられない。こんなに悲しいことは今まで一度もなかった」
「私はいつもそんな事を思っていたよ。今もね」
「……わたし、ねえさんの前に現れなきゃ良かったね」
「そうだよ、丁香。どうして昔のままの姿で、龍のそばに居られるという栄光を身にまとって私の前に現れたの? 現れなきゃ、私はずっと幸せだったのに。いつもそうだったね。お前がやりたいようにやると、私が不幸になる」
「ごめんね、ねえさん」
 丁香は帯につけた小さな袋を開けた。
手のひらに乗るほどの見事な玉環が転がり出てきた。
なんとも美しい、銀河を凝縮したような乳白色の玉だった。
「……ねえさん、これを―――」
「いらない」
「そう……」
「もう龍のところに帰りなさい、丁香。それを持って帰って。自分のもの、全部拾って帰りなさい。房飾りの一粒だって残してはだめよ」
 丁香は頷いた。
目からぼろぼろと涙をこぼして、こらえようとして唇を噛みしめていた。
私はその顔をだけ見て、立ち上がった。
「さようなら、丁香。あなたの行く末が幸いでありますよう」
「さようなら、七彩ねえさん。……ねえさんとねえさんの家族の行く末に幸いありますように」

 その後、私は丁香を見ることがなかった。
虹を見ることも無かった。
空は太陽と雨さえ大地にくれればいい。
そうして、私の目が見えなくなったとき、ようやく私は顔をあげて歩けるようになった。
 目が見えずとも、手が動き、自分の足であるけるならいい。
畑仕事が出来ずとも、機織り仕事は得意だ。
指先に感じる織りの目の美しさは昔からかわっていない。
 時折、若い孫が代わる代わる私の手を引いて散歩に出してくれる。
孫の手はすべらかな皮膚をはりながら、日増しに大きく優しくなっていく。
温かいぬくもりが手を通して伝わってくる。
「川の音にまぎれて、しゃらしゃら音がする」
「それは若い青麦の葉が風で揺れる音だよ。まだ穂は小さいね。あっ、水たまりがあるからちょっと避けるよ」
 孫はそれ以上言わない。
ただただ、周囲にあるものを私に教えてくれる。
私はそれを聞きながら、昔見たものを周囲に当てはめて行く。
「あ、虹が出てる」
「どんな虹?」
「東北の山のまたからすっくとのびているよ。色は淡いけど、絹みたい」
「そう」
 幼い丁香に手をひかれ、私は散歩道を行く。
日増しに強くなる光と大地から立ち上る湿気が、夏の到来を教えていた。




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