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死霊の館 1


0.Neither You Nor I Are Any Longer.

 魔術士を養成する機関では最高峰の『ジェア』。その名はファルデリア王国だけでなく、エウル=ネブラバス大陸全土に轟いている。
地形として表をアシュレの港町を見下ろし、その裏の森は山へと続く。
ジェア独特のプログラムに力ある卒業間近の生徒はその森に暮らすと言う物がある。
精霊の声を聞き、真理の一片を掴むためだと言う。
だから、彼ら以外は教師以外立ち入り禁止だ。
僕が言いたいのはその森の事でなくではなく、学舎の裏、どの寮からも死角となっているところにある一本の大きな菩提樹の事だ。
 昔、と言ってもほんの6年前の事なのに、もう数十年も過ぎてしまったような感じがする。
 そう、ほんの6年前。
その少年は授業にも出ずこの木の上で寝そべっていた。
この菩提樹の上に、金の髪の少年が居たのだ。
僕ら、ジェアの学生は彼を『菩提樹の子』と呼んでいた。
誰も彼と話す事はほとんどなかったし、彼自身近寄りがたかった。十にもならないだろう彼は遠目から見ても驚くほど大人びた表情をして、いつも何処かを見ていたからだ。
それはジェアから臨める小さな港町なのか、それとも空なのか。僕には判別つかない。
僕は彼を見た時、不意にわき上がる感情があった。
『彼と話してみたい』
僕はちっとも社交的でなく、誰かに声をかけようとか思う事は滅多に無かったのに、一目見て思ったのは不思議だった。
僕よりも小さい子供。
それなのに、そう遠い目をするのはなぜか。
聞きたくてしょうがなかった。
 ある時、僕は彼と話す機会を得た。
その日は夏の始まりともいう強い日差しで、菩提樹の葉が光をはじき輝いて深い色の影を作り出していた。葉の隙間から溢れる日差しと、枝を揺らし渡る風が涼しく、数日前に刈り取られた草が発酵したむせ返る甘い匂いが心地いい日だった。
「君、いつもそこに居るね。どうしたの?」
 僕は彼を見上げた。小さな素足がぷらぷらと揺れていた。
彼は器用に起き上がり、猫のような目が僕を見下ろす。
「別に。そっちこそ、何をしている? 授業だろう」
 ぎくりとした僕を見透かしたように、彼はにやりと笑った。僕はこんな魔法士養成のところに居るにも関わらず魔法が得意でなかった。はっきり言ってしまえば、まるきりの落ちこぼれだ。
今日は実技の日。頭が痛いとさぼってきてしまった。
けれども、僕は笑われたくなかった。
「ちょっとね」
 僕が出来た精一杯の強がりだ。平静を装って言っても、彼の薄い色の目からは逃れられない気がした。
「『さぼり』ってやつか」
 少年は好奇心の色を見せた表情で僕を見る。
「そんなもんだよ」
 僕は答えた。
「上がってこい、ジェイス・キールト。ここは気持ちがいい」
「え?」
 彼は僕が聞き返す暇もよこさず一つ印を組んだ。地から天への道を示すたった一つの印を組み、彼は唱える。
「イェナ・オル!」
 大地の束縛から僕の身体は解き放たれ、恐る恐る固い地面を蹴ると僕は一息に彼の居る枝に着いた。なんて子だろう……!
どんな教師ですら他人に、それも一印二唱で魔法を掛ける事なんか難しいのに! 
 僕は呆然と彼を見た。
「どうした?」
「い、いや……」
 とまどう僕に彼はふっと目を細めて反らし、口元を綻ばせた。
「ようこそ、我が枝へ。景色を堪能するがいい。塀の向こうが見える」
 大人びすぎた口調に有無を言わさない迫力を覚えて僕は彼の指す方向を見た。
胸の詰まるような景色が広がっていた。
森、街や山、岬を一望し、輝く空と海が視界に飛び込んでくる。
「この景色は好きだ」
 彼は遠い目をして僕と同じ景色を見ていた。
「どんな事もすごく小さいことのように思える。天は大地を包み、大地は命を育て、命は海に、陸に、大気に広がっている」
 彼の声を聞くと、僕はそうだ、と頷いた。
落ち着き大人びた口調は不思議と、「子供のくせに」なんていうような反感を生まなかった。
「お前はこの景色が好きか、ジェイス・キールト?」
 彼はいつの間にか僕の目を覗き込んでいた。
「あ……。うん。すごく、綺麗だと思うよ」
「じゃあ」と彼は言った。僕は彼の目から逃れる事は出来なかった。
「魔法が巧くいかないからと、皆から馬鹿にされても己の道を進むがいい。歯車とぜんまいを使い、『機械』を作りたいのだろう? いつか分かる。それは魔法から逃げている事ではない。お前は一度も逃げていない。違うか?」
 彼は僕の言葉を待った。僕は言うしか無いのだろう。
「今日、本当は魔法の試験だったんだ……。頭が痛いって仮病を使って、ここに居る。これは、逃げているよ」
「そうだろうか? お前は選んだのだ。試験よりもここに来る事を。こちらから魔法を掛けた訳ではない。お前自身が選んだ事。後でどんな罰則が待っているかを知りながら、お前がここに来たのだ」
 少年特有の高い声は、風のように僕にしみ込んでくる。
「この世界に置いて『逃げる』とは、自分で選択することを放棄する事でありそれは下劣の策である」
 彼は、苦しそうに顔を歪めた。言葉を止め、唇を噛み締めている。
この時、彼は初めて僕から目を外した事に気がついた。
さっき反らしたが、違う。完全に僕から意識を外したのだ。
「だ、大丈夫?」
 どこか悪いのだろうか。
心配になって手を伸ばすが、彼は不意にまたにやりと笑った。
「なんてな。失敗したら他にいくらだってやる事はあるんだ。実家が魔法の名門だろうがなんだろうが、お前まで魔法の名手にならなきゃならない理由なんて無いさ」
 さっきまでの重々しさはなんだったんだ!?
「でもな、よく聞け。お前の潜在能力は、確かにこの学校の上位階級に入る。それどころか、教師陣にも負けないだろうよ。ただし、お前は半端じゃなく不器用。その結果魔法の扱いが巧くない。だから、度胸をつけろ。そうしたら巧くいく。保証してやるよ」
 唖然とした僕は彼の勢いに引き込まれた。
「も、戻れって言ったって―――」
 僕は目眩を覚えた。この高さ、寮の3階よりも高いだろう。
「む、無理だよ」
「『無理』なんてやってもないうちに言う奴は、枝ごと切って落としてくれる」
 彼の指先から銀の火花が飛び散り始める。
「わ、わかったよ! 待って、待ってくれってばっ」
 一つの呪言も無く魔法を使おうとするなんて、何て無茶なんだ!
「タラ・ファード・シン―――」
 途中まで続けて、僕は唱えるのを止めた。5唱の僕は、あと2唱唱える必要がある。
彼は、おや、と肩眉を上げた。
「君は、僕を見透かしているような気がする。だから、僕は君の千里眼に対抗したい。
そして、君の言った事を信じたい。もしも、って時は誰か先生を呼んでほしいんだけど。よろしくね」
 彼は白い眉間にしわを寄せた。
僕は印を組んだ。一つだけ。指先から透き通った何かが天へ地へ膨らみ広がり強くしなやかな糸を生み出す。
「イェナ・オル!」
 呪言を叫ぶ。糸は言霊にその弾性を強めて僕を絡めた。
木の枝を蹴り跳ねる。
僕の身体はふわりと風に乗り宙にあった。
成功した……! と思うと同時、僕は恐怖に狩られた。
地面との接触の時間までが予想以上に速い。
このままじゃ―――やっぱり、僕の魔力は……!
目を固くつぶった時、がくん、と身体を引っ張られる感覚を感じた。
「魔力、度胸は合格だな。後は技術だろ」
 くくっと小さく笑う彼の声が降りてきた。
助かった、とわかると歯ががちがちと凍えたように震えていた。
「あ……」
 目を開けると、あと少しで、地面に足がつく高さだった。
「あ、ありがとう! 本当に、本当にありがとう……っ」
 彼は、微笑んでいた。遠い景色を見てではなく、あのにやっとした口端を歪めるような笑いでなく、それこそ静かな微笑みを浮かべていたのだ。
「また、来ていいかい?」
「ああ。いつでもな」
 鮮やかな金の髪をもてあそぶ風が、返事をのせてくれた。
しかし、それから二、三ヶ月後。
彼はただ一人でジェアを去った。
僕よりずっと幼い彼の小さな背を僕は見送る事は出来なかった。
ただ羊皮紙の切れ端に自分の名を刻んで置いていった。
多分、これは本当の名前じゃないだろう。
僕は彼の名前を知らなかった。
気づけばずっと一緒に居たのに、名前を呼ぶ事は無かった。
他の生徒と彼の事を話すときですら、他の人たちと同じく『菩提樹の子』とか、そんな呼び名だった。
『金の咆哮』とだけ一言書かれた羊皮紙は、僕が読んだ瞬間、端からめらめらと金色の炎を上げて燃えて消えた。
金の火の中に彼のあの目が鮮やかに蘇る。
 僕は、初めて彼にあった日の空が海のように青かったのを覚えている。

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