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紅き薔薇に祝福を 7


《ローザ・グリフ》
「こんなに、酷い事になっていたのか……」
 アドルフの押し殺した声が、空気に溶けた。
愛らしかった面影は消え去り、衰弱しきってもなお悪魔の為に暴れて父に対し唾を吐く子供は哀れだった。
男爵は首を小さく振り、その琥珀色の瞳から涙を流した。
魔法陣から発せられている光の壁に遮られるために手は届かない。
それが、もっとアドルフを悲しくさせた。
「泣くのは終わってからに。――グロリア」
 突然の呼びかけと差し出された銀の短剣にグロリアは驚いた。
「サポートを。それとも―――アランが居なくては出来ないか?」
 言葉につまる。
「本来悪魔祓いとは悪魔祓士のみがやるもので、破魔士も魔物を追う者であったとされていた。
今では悪魔も魔物の性質を具している者が多いため、新たに祓人なるものが作り出されているが悪魔祓士ならば如何に相手が魔物の特徴を帯びようと対抗できるはずだ」
 ……そうかもしれない。でも、自分は力不足なのだ……。
「何故私が破魔士と組み祓人とならず、悪魔祓士でいるか分かるか?」
 そう言って、ローザは薄く妖艶に笑う。
「考え方が違うからだ。
神殿の悪魔祓士は悪魔を祓うのは祈りだけだと考えるが、破魔士は何でもありだ。
祈りであれ、禁呪であれ躊躇わず目標の完破を果せば気にしない輩だからだ」
 ローザがグロリアを見据える。心当たりがあるだろう、と無言の内に問い掛けている。
アランは……。
「先輩、始めましょう」
 グロリアはローザの手から銀の短剣を受けとった。


血の色のワインを満たした銅のゴブレット。
塩、香と聖木を焚いている香炉。
銀の燭台上の蝋燭の炎。
全てが魔法陣の上に正しい位置に置かれ、部屋に二人の祈りの声が響く。
グロリアの持つ銀の短剣は一章を読み上げ終わる度、聖水に浸した人型の羊皮紙に突き立てられた。
五回に分けて、突き立てられるその人型は悪魔の意味をなす。
「[――悪魔による死を望むな。そは甘美なる快楽を得る代わり全てを失う。
ドゥ―マに死を望め。そは限りなく等しく、涙の淵を渡る事ができる――]」
 グロリアの額に玉のような汗が流れる。
何時間も祈りによって聖力を消費している証拠だ。そろそろ最後の祈りが終わる。
これで、最後……。
身体を二つに折るほどの痙攣が激しいシャランテーゼはこれで救われるのだ。
アドルフも固唾を飲み、見守っている。
「やめろっ!」
 扉の一つが荒々しく開き、少年が飛び込んでくる。
「その悪魔を放すな!!」
「アラン、何で!?」
 グロリアは驚きの声を上げた。
祓人であるアランがシャランテーゼの悪魔を祓うことを止めようとしている。
「あと少しなんだよ? 邪魔しないで!」
「駄目だ駄目だ駄目だぁあ! 放したら取り返しのつかない事になるぞ」
グロリアの静止も振り切り、アランはローザに向かい前進する。
「やっと、あんたを見たときに感じた恐怖の意味がわかったよ……。
今でも正直言って、あんたが恐い――――あんたがエルフィを去った時の記憶を思い出したから」
「何を馬鹿な事を。グロリア、最後の離別を言い渡せ。終わりだ―――」
 長い黒髪を掻き上げ、ローザはグロリアに言う。
「何を思い出したか教えようか? ローザ・グリフ。
あんたにとっても、アドルフにとってもヤバイことだ。
ガキだった俺にとっては、記憶を自分で封印するほどの恐怖だったよ―――」
 ローザの表情が険しくなる。実際に、その殺気で気温が下がったように感じられる。
アドルフはガタガタと震えていた。
「その、人型は悪魔じゃない……。シャランテーゼのものだ……」
「嘘……」
グロリアはローザの顔を見るがローザは何も言わなかった。
「悪魔を消さず、取り出すのにいちばん簡単な方法は、宿主を殺すことだからな。
あんたには悪魔を消せない理由がある」
 信じたくない。
グロリアは身動きひとつできずに、息を殺したまま二人を見ていた。
「あんたはあれから―――何人殺したんだ?」
 アランは寂しそうに尋ねる。
ローザの顔が伏せられた次の瞬間、アランはその細く白い腕を身体に通していた。
貫通したローザの手は鮮血の糸を引き、中には紅い塊を握っている。
一瞬にして、数メートルの間合いが閉じられ手刀が彼の胸部を貫いていた。
そのまま、突き上げられ彼の身体は木偶のように舞う。
「アランっ!?」
 倒れたまま動かない彼の身体は生暖かい紅い海に塗れる。
肩をゆすり、必死で起そうとするグロリアのローヴも紅く染まる。
彼の顔はこうなる事を知ってたのか驚くほどに静かだった。
「やだよぉ、まだ、仲直りもしてないのに、謝ってないのに……」
「グロリア」
 腕を紅く染めたまま、ローザが無表情に言う。
「最後の一突きを入れろ。さもないとシャランテーゼは死ぬぞ」
「なんで、こんな事をしたの!? 
アランは破魔士だけど、あたしのパートナーだったのに!! なんで!」
「黙れ」
 取り乱し、食ってかかるグロリアに冷たく一蹴する。
「目的の為だ。そのためならば障害は全て取り除く。そして目的は達成されていない」
「そんな……」
 突然の言葉に、グロリアは声が出なかった。
蛇に睨まれた蛙のように動けない。
そのグロリアに一瞥を与え、背を向けた時だった。
音もなく、ローザの腹に一本のダガーが突き刺さった。
「奇遇だね。僕も同じさ……」
 奥まで刺さったダガーが気色の悪い音を立てながら、引き抜かれていくと同時に、ローザも膝をつき倒れる。
グロリアの恐怖に見開かれたその目に映った惨劇はどういうことなのだろう? 
突然のたて続けた出来事に目眩がする。
血でぬるぬると滑る床のうえににっこりと微笑んだアドルフが立っていた。


 いつの間にか、眠っていたのか……。
彼は目を覚ました。
胸が激しく上下する―――悪い夢でも見ていたように。
 何が起きたんだ?
悪い夢を見ていたのだ。
自分は先に森の中に身を潜めていた。
あの人に、お礼が言いたくて。
聞きたい事があって。
人の声がした。
数人の男にあの人が諦めたようにモノを頼んでいる声がした。
それから――――。
月はなく、星だけの光が硝子張りの窓から入ってくる。
ここは、何処だったか……?
豪華な部屋。
何もかもが一級品だと、彼の目にも分かる。
 何をしようとしていたんだっけ?
ああ、そうだ。
友達を助けに行かなくては。
大切なあの子を―――


「お兄ちゃん、何を言っているの―――?」
 グロリアは血まみれのダガーに目が釘付けとなったまま言った。
「何を、したの―――?」
 足元にはアランとローザがぴくりとも動かず倒れていた。
「見てしまったか……」
 アドルフは笑顔を見せた。
「そりゃあ、そうだよな」
 グロリアはその事の意味が取れずに硬直する。
「しょうがない。死んでもらうよ、グロリア」
「何を――――――――――」
 横目に入るシャランテーゼの痙攣は小さくなってく。
儀の力が失効し始めているのだ。
「へ、変な冗談をやってる暇はないよ! シャルの悪魔を退治する為に呼んだんでしょう?
 ―――殺すなら、その後にして」
 兄の目に映る狂気の光を見て彼女は変に言葉を重ねるのをやめた。
「お前一人に何ができるんだ? 教えてもらいたいものだね。
それに、おれは我慢が嫌いだっていう事を知っているだろう? 
不安材料は消さねば気が済まない」
「待ってよ! 今シャルの悪魔祓いを続けなきゃ死んじゃうよ!
あたし一人ででもここまで出来たらやれる。続けなくちゃ! 
お兄ちゃんの子だよ!? それでもいいの??」
「構わねぇな」
 握られたままのダガーの切っ先が蝋燭の光に鈍く光る。
「おれの大切なモノは今の所このカドレル男爵の家柄なんでね。
それ以外はどうでもいいし、どうとでも処分できる。
例えば、『僕の妹は悪魔と戦って死にました』というだけでね。
――――美談じゃないか。兄を救う為に命を祈りに変えた悪魔祓士なんて」
 アドルフの手がひらめくとそこにはダガーがなかった。
「きっと、記念の像を作ってもらえるよ、グロリア」
 瞬間遅れてグロリアの琥珀色の髪が数条、蝋燭の光を受けながら散った。
背後の壁にアドルフのダガーが突き刺さる。
「へぇ、外したか。ダーツは得意だったのだがな」
 悪夢を見ているの?
寒気がとまらない。目の前の兄が恐い。
「まあ、少なくともおれ自身がお前に手を出すマネはしない。
二人きりの兄妹だからな。だから、この人たちが相手をする」
 アドルフの手の平が数回打ち鳴らされた。
中広間にある幾つかの扉からあの男達が現れる。
「じゃ、あとはよろしく」
 アドルフはすぐ後ろの扉から出ようとした。その時、男達の中の一人にぶつかる。
「馬鹿野郎、道を塞いでんじゃねぇよ!」
 その男は殴られた。しかし、そのままアドルフを睨み返す。
「おれが通るといったら通すんだ! そんな事も分からん馬鹿なのかお前は」
 蒼い瞳が罵倒に怯む事無く睨み続ける。
一言、その口が動いた。
「雄黙」
「……!」
 アドルフの口が開かなくなる。男はそのまま前に出た。
「グロリア、大丈夫か!?」
 一瞬にして荒くれた男の姿はよく知っている少年の姿に変わった。
「ア、 ラン……?」
 グロリアは慌てて足元を見た。
ローザの身体はくの字に曲がってあれどアランが流したはずの血など微塵もなかった。
あるのは、アランの紅いピアスと《シンカの望み》がそこにひっそりと落ちていただけだ。
「さて、皆さん。男爵サマ以外ご退去願いましょうか。
これから行なわれる悪魔祓いのとばっちりを受けたくなければね」
 それを皮切りにしたように、男達は二人に襲い掛かる。
「あっ」
 一人の靴が、下に落ちてしまっていた羊皮紙の人型を引き裂いてしまった。
シャランテーゼの体が宙に浮き、大きく反り上げた。
「しまった……! 本気で逃げろ、逃げてくれ!!」
 アランが叫ぶ。
シャランテーゼの体から、漆黒の気体が溢れた。
大きく大きく膨れ上がり蔓延しようとする。
「ぐがぁっ」
 少女に一番近い男の体から奇妙にねじれていく。
「[空の祝福、地の恵、大海の守りを授け給え]!」
 全員の体をグロリアの祈りが包むが、シャランテーゼに近づいていくに従い骨の折れた者が増えていた。呻き声が場を支配する。
「ほら、危ないだろ! 早く用のない奴はここから逃げてくれ!」
 退去を促し、アランは混乱の魔法をかける。
混乱に混乱の輪をかけた男達は一斉に入ってきた扉から逃げ出した。
そのほとんどが何を混乱の魔法の中に見たのかは分からない。
それでも一人叫んだ奴が居た。
「うわああっ悪魔だ! 女の悪魔が起き上がってくるぞ!!」
「待て、馬鹿共が! 何のためにおれはお前達に大金を出したんだ!!」
 魔法の解けたアドルフが叫んでも止まる者は居なかった。
「尋問は後でやるとして、シャランテーゼの悪魔は!?」
 いつの間にか気体は消えていた。彼女の体自体、魔法陣の上に倒れていた。
「何処に行ったんだ……?」
 呆然と立ち尽くし、首だけで悪魔を探しつづける二人の背後で、ローザは静かに起き上がった。


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