死霊の館 6
X.Down From The Mirror
少し冷静になって考えれば、遠近感の掴めない鏡の部屋の中を走り回るのは非常に容易い事ではない訳ですね、はい。
最初の位置から数回も角を曲がりきらなかった所でおでこを鏡に思い切りぶつけた事を白状します。
音が凄かったよ。
『がづん』だって。
今、凄く頭が痛い。
血こそでなかったけど、ずきずきと痛む。
腫れるんだろうなぁ。
《当分鏡に額を押しあてておくといいよ。少しは冷やせるんじゃないかな?》
「……そうしておきます、ジェイスさん」
私は鏡の中の男の人に答えた。
ひんやりとした鏡に打ち付けた額を再び寄せると、髪に不思議な負荷がかかる。
頭の上から頭の付け根までゆっくりと優しい重さが波のように来るのだ。
鏡の中で、ジェイスさんは私の頭を撫でていた。
現実、というよりかは私が居る所に彼の姿は無い。
抜き身の長剣が鏡の壁に立てかけられてあるだけだ。
魔法士の最高峰、『ジェア』の紋章のブローチを着けたたっぷりとしたローヴのこの人は名をジェイス・キールトと言うらしい。
穏やかな目元の感じは父さんに似ている、なんて言ったら失礼かな?
年齢は私とそう違わないように見える。
きっとジェイスさんのほうが私よりも3、4歳ぐらい年上だろう。
《どう?》
「あ……、少しマシですね」
《良かったね》
「……」
《……》
何か喋らないと、間が持たない。
「あ、あのジェイスさん。聞いていいですか?」
《はい、なんでしょう?》
「あなたはどうして鏡に―――」
ジェイスさんの表情は一瞬陰り、私は言葉に詰まった。
困ったな、聞いちゃ行けない事かもしれない。
「えっと、あなたはどうして鏡の間なんかにとばされてしまったと思われます?」
《僕はある種のトラップと見るね》
「トラップ、ですか?」
まあ、トラップはトラップでしょうけれども。
でも店長の気づかないトラップって―――いくつもあった気がする。
《まあ、こんな所じゃ全てがトラップと言って過言は無いけれど》
「どういうことです?」
《ここは作り出された空間なんだよ。間取りはそいつの望み通りになるんだ》
「間取りは自由って言っても、大工さんに頼めば出来る事じゃないですか」
《そうじゃなくてね、例えば箱庭と思ってくれればいい。しかも手間のかからない、望み通りのコーディネイトの出来る箱庭》
「箱庭ぁ?」
嫌な事を思い出した。
《そう。その箱庭の持ち主が君をここに放り込みたいと願ったから君はここに居るんだ》
「じゃあ、あの可哀想だった女中さんは? 彼女も作られた“物”ですか?」
《あれは、持ち主にとらえられて放してもらえない可哀想な魂だよ》
「……では、奥様がこんなことを? 彼女は奥様に閉じ込められたのでしょう?」
《それは僕には分からない。……さあ、立ち上がって。剣を構えるんだ。さあ、お客さんだよっ!》
彼の鋭い言葉に慌てて何人もの私が立ち上がった。
言われた通り剣を片手に構える。
てっきり、さっき私が曲がってきた角をくるのかと思っていた。
じっと角を睨みつける私と正面の私。
剣を構え、呼吸をこらす私と―――
「しょっ、正面の、剣を持ってる……っ!」
私の声を皮切りに、鏡として正しい私が鋭い突きを入れてくる。
《危ない!》
鏡の中でジェイスさんが私の腕を引き寄せた。
剣を持つ腕が勝手に引っ張られる。
たたらを踏みながらも間一髪!
「か、鏡じゃない……っ」
真新しかった革の鎧の脇に鉤裂きが走った。
なんてためらいの無い胴突き。正確な狙い。
あんな速さではこんな軽量の鎧じゃ貫通してしまう!
「きひっ」
彼女の裂けるほど横に引かれた唇の下から漏れたのは笑い声なのか。
あれだけの突きを外したのに彼女は踏みとどまった。
次の瞬間、上半身を捻り低い位置から長剣を跳ね上げてくる!
「くぅ……っ」
跳ね上げるよりも振り下ろす方が力が入りやすい。
剣と剣が交差する。
思わず耳を塞ぎたくなるような音。
衝撃で手が痺れ、互いにはねとばされる。
《逃げよう、早くっ》
一も二もなく、私はその言葉に従った。
「私カラ逃ゲラレルト思ッテ?」
勝ち誇ったようなあの声。
凄く不快。
あれも、私のものなんだろうか?
あちらこちらで私が近づき遠ざかり、そして目眩がしてくる。
私が本当の私のはずだけど、私の体は本当に鏡の間を通り抜けて走っているのかどうか。
もしかしたら、鏡の中の何かに私がつられて走っているのかもしれないし、もしかしたら、鏡の中を私が走って本当の世界を何か私でないものが走っているのかもしれない。
……頭がもっと痛くなってきた……。
いくつもの角を曲がり終えたときだった。
たくさんのジェイスさんは口を揃えて一声に「止まって!」と叫んだ。
彼の表情は青ざめ、目を見開いて一点を見つめている。
私も、自分の目が信じられなかった。
剣を持った『私』が、鏡の中で微笑んでいる。
冷たい微笑みだ。
蛇のように凍った目をしている。
ちがう、これは私じゃない。
私、こんな表情なんかしたことないよっ!
《チガウ、コレハ私ジャナイ。私、コンナ表情ナンカシタコトナイヨッ!》
『私』は口を細い三日月のように曲げた。
《ナーニ言ッテルノヨォ?》
『私』は鏡の表面に手をおいた。
弾性をもつ透明な膜のように鏡が歪んで見える。
《シテルノヨ、アナタ……コンナ表情》
逃げなきゃいけないのに、足が動かない。
《ダッテ、私ハ―――》
粘性の高い液体から出るように鏡の中からゆっくりと腕を突き出した。
ジェイスさんが何か叫んでいるけど聞こえない。
「あなたナンダモノ」
彼女の吐息が、私の眉間にかかる。
斬撃が、横に薙ぎ払われた。
またあの金属と金属のぶつかり合う音が骨に響く。
「くっ」
剣を打ち鳴らし合いながら、私は『私』の目から目を逸らせない。
暗い―――いや、黒い青の目。
私の目はいつそんな色をしているのだろう?
「知リタイ?」
「え?」
突然の問いに反射が遅れた。
剣がはじき飛ばされ、彼女の突進を防げなかった。
ただでさえ滑る鏡面で私は背中から倒れ込んだ。
とどめを刺されるっ!
「店長……っ」
……。
あれ?
容赦ない剣が振り下ろされると思ったのに来ない?
私は縮こめた腕の隙間から、目の前の勝者を覗き見た。
「剣ヲ取リナサイ」
『私』は冷たく言い放った。
「早ク」
私は剣を探した。
良かった、腕を伸ばせばすぐに届きそうなぐらいの所にある。
手が柄に触れた時だった。
何が起きたのか、理解するのに時間がかかった。
私は床の私の虚像に鼻をつぶすほどキスをしていた。
ぐりっと後頭部から重力以外の力がかかる。
鼻が痛くて逃げたくても、なんとか首を横に倒すのが精一杯だった。
「見ナサイ、自分ノ目」
鏡に映らない『私』は私の髪を掴み鏡に押し付ける。
さっきまで柄に触れていた手はかかとで踏みつけられ、背骨の上に膝が乗ってるせいで立ち上がれない。
「教エテアゲルノ。見ナサイ」
「ぐぅう……っ」
私の目。
いつもは少し濃いめの青なのに、今の色は薄い。
「見タ?」
「嘘じゃないですか、あなたの言った事は……」
そう、今の私はあんな黒い青い目なんかじゃない。
こいつが私だなんて、嘘だ……!
「あぐっ」
私はまた頭を打ち付けられた。
「私ハ、あなた」
私は、負けるしか無いの……?
「ソウ、あなたノ負ケ。私ガ勝者」
私の背筋がびくんと跳ね上がった。
悔しかった。
悔しさは色となって瞳に現れる。灰色を混ぜた濃いめの青。
「敗者ハ勝者ニ何ヲサレテモ文句無イヨネ? 負ケタンダモノ。弱イノガ悪イジャナイ?」
彼女は嘲笑した。
私はこんなことしない。
こんなの、私じゃないのに……っ!
「絶対ッテ言エル? 『絶対にしない』ッテ?」
「だって、したことないもの……」
「コレカラノ事ナンテ分カラナイハズデショウ?」
「今まで、私は私に負けた人にこんな事した事無いよ! これからだってしないに決まってるよっ!」
「ソレハ、間違イ。あなたハ、戦ッタ事ガ無イ」
「ある、あるよ! 先生のところで、何回だって戦ったよ」
「ソレハ試合。只ノオ遊ビ。戦争ジャナイ」
「戦、争……?」
「戦争ハ生死ノ問題」
「……」
「自分ノ意志デ戦場ニ上ガレバ殺サレテモ文句ハ言エナイ。ソレガ戦争」
「……」
「負ケタ骸ハ勝者ニ踏ミニジラレル。ソレガ戦争。文句ハ無イデショウ?」
ここは戦場なのか……。
そうだ。生死をかけた所は戦場と言える。
そして、私は自分で飛び込んだのだ。
負けたからといって文句の言える立場ではない。
でも―――
「私、ヤリタイ事ガアルノ。あなたト代ワッテ―――」
私と代わる。さっき女中さんにも言われた聞き慣れた言葉。
女中さんの言葉とは違い、彼女の次の言葉に私は心臓を掴まれるような吐き気を覚えた。
「―――あなたノ大事ナ人、全部殺シタイ……」
うっとりとした声。ぼんやりと震えながら、夢を見ている声。
「やめてよ!」
私は横に振れない首のまま叫んだ。
「イイジャナイ。私ハあなたナノ。あなたノモノ、私ノモノダヨ」
「駄目っ! させない、絶対させないっ!」
やっぱり、こいつは私じゃないよっ!
「あなたハ敗者デショウ。勝者ニハ手向カエナイ」
「じゃあ、私は負けない! あなたを倒すっ」
「モウ私ニ負ケタト言ウノニ、今更何ヲスル気?」
確かに、私には策は無かった。
でも、彼女が本当に私ならば……!
私は踏まれていない空いた手で背中に乗ってる足を掴んだ。というよりは探った。薄い布のズボンの上から指先をふくらはぎの上で滑らせる!
「ひぁわっ」
背中にかかっていた重心が崩れた!
その隙に体をひねり出し、ついでに彼女を蹴り飛ばした。
がづん、とかなり大きな音を立てて彼女の頭が激しく鏡にぶつかる。
「あなたが私なら、私の嫌いなことも嫌いなはずだものね」
立ち上がると同時、剣を拾い上げて構える。
《大丈夫かい!?》
「そう言う位なら助けてくださいよ!」
《助けたいのはやまやまなんだけどね、あいつの姿が鏡の中に無い限りは僕も手の出
しようが無いんだ。僕も移動出来ないしね》
「どうして、あれは鏡に映らないんですか?」
《あれは君の鏡像の一つだからだよ。鏡を出た鏡像はすでに鏡像でなく、『なんでもないモノ』なんだ》
「……よく分からないです」
でも……私の鏡像が実体化したものだとするなら
「でも、私がここから居なくなれば! あれは消えますね?」
《うーん、まあ。うん、そう言う事だね》
私はその言葉を聞くや否や再び走り出した。
出口を!
《出口が無かったら作るまで、だね》
ジェイスさんの言葉に私は頷く。
硝子を使った鏡を探した。
《あれだ!》
私は剣を逆手に持ち替えた。
走るその速度を殺さないまま、柄を硝子に打ち付ける!
飛び散る砕けた硝子の向こうには、黒々とした板が張られていた。
ジェイスさんが叫ぶ。
《フェ・ルーダ・ガ・ヴィネ・エラド、炎獣角よ、貫け!》
鏡の中で、その穴に鮮やかに輝く炎が突進する。
そして、黒は裂ける。
私の立つ世界で、燃え上がり焼けた落ちた穴。何処に続くのだろうか?
私の靴の音が苛立たしげに近づいてくる。
迷っている暇はない。
私は抜き身の剣を固く握りしめ、鏡の穴に飛び込んだ。
最後に視界に入った鏡に映っていたのは、ジェイスさんの手を強く握りしめた私。
暗がりの中で、がらがらと崩れる何かを聞いた。