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死霊の館 7


Y.Dance with Shameless Beauty.

……。
……ここは……。
……私は、眠っていたのだろうか?
真っ暗で、何も見えない。
これは丁度あの感覚に似ている。
星さえ出てない闇夜に目を覚ましてしまったときのようなあの感覚。
夢なのか現実なのか。
目を開けていても自分の鼻の先さえ見えない。
そもそもこの旅自体が夢なのでは、と思うけれど頬や体の痛みがあるからにはきっと現実だ。
でも寒くもなく、暑くもない。
どんなに手足を動かしてもそれで空気がちょっとでも動く気配は無いし、足の裏にはあの堅い靴底の感覚だってない。どこが上で、下なのか。
「あー……あー……」
 声を出すと反響は無い。
「ジェイスさーん、おぉーい……」
 この声は本当に私の喉から出てる音なんだろうか。
「店長ーぉ」
 あまりの静けさに耳が壊れちゃったのではないか不安になってくる。
あの鏡の私があんまりにも強く私を鏡に叩き付けたから。
露天商のステルファさんの旦那さんは喧嘩っ早くて有名だったけど、一度頭を樫のテーブルに叩き付けられて以来耳が聞こえなくなってしまった。目だってそれからちょっと見えてない場所が出来たって……。
まさか、私も―――?
ひやりとした何かが胸を伝う。
嫌なことしか頭を駆け抜けない。
「嫌だ!」
 目だけは、目だけは失いたくない。
父さん譲りの私の目。
母さんの横顔も、父さんの背中も見てきたのは私の目だ。
お願い、天の父シンカ様、地の母テリトナ様、お願いします。
また父さんと母さんに会うまでは、目だけはお願い、取らないでください。
本当は耳だって持ってかれたくはありません。
子守唄も笑い声も聞いてきたのはこの耳だから無くしたくありません。
でも、目を持っていかれるなら耳を持ってってください。
声だって取り上げられても構わない。でも、目だけは止めてください。
 ―――私はしばらくうずくまって祈っていた。
体を縮めて、こんなに祈ったことはこの数年来無いぐらい祈っていた。
あの鏡を割って作った穴からこの闇に入ってから、ジェイスさんの声も姿もなかった。
 不安が、私を押しつぶす。
「痛っ」
 しっちゃかめっちゃかに聖印を切ろうとした左手にちょっとした痛みが走った。
それがどん底に引込まれかけた祈りを中断するのに丁度いい刺激だった。
そう、抜き身の剣。
抜き身の剣の刃が革の手袋を裂いて私の手のひらを切った。
ちりっとした痛みに目が覚める。
痛みがあるってことは死んじゃないってことだから良いことだ。
傷を舐めるとちょっと塩味の鉄臭い血が舌に乗っかった。思ったより少ない。それほど深く切ったわけじゃない。薄皮くらい。
革の苦みと薄くついた白墨が口に広がって気持ちが悪い。
でもこれじゃ……何かあったときに剣が握りにくいな。
白墨の粉が傷に入るとどうしようもなくずきずきと痛む。
 私は手甲を外した。手袋と一緒にどっかに行かないように股に挟んで右袖口から二の腕に巻かれた包帯を掴んで取り出す。
するすると出すと―――
「光、だ……」
 包帯、正確にはその包帯に描かれた文様が淡く緑がかった白い光を放っていた。
「便利だね」
 ひやりと冷たくなった胸がほこほこと暖まってくる。
私の目は、見えてるようだ。
左手に包帯を巻き付けると、その光はふるふると震えてその強さを増した。
何か、左腕が熱い。
奥から熾き火が火の粉をあげて燃え始めるような―――。
「え?」
 突然の寒気に背中がぞくりと反り返った。
風邪、じゃなく何だろう? 
そうだ、これは……誰かに見られている感覚。
包帯に宿る光が私の存在を知らしてしまったのかもしれない。
私は服の裾の中に左手を突っ込んだ。
ここから少しは離れなくちゃ、としばらく足を前に動かした。
移動しているのかどうなのか、分からないけど……。
ああ、まただ。
誰かが私を見ている。
じっと、昏い闇の濃い所から。
じっと私を―――。
「誰!?」
 怖くてたまらなくて、思わず叫んだ。
「誰がそこに居るの?」
 物音一つしない。
勿論返事も無い。
ふっと、視界の隅を何かが過った。
慌てて顔を向けると息を飲んだ。
そこには白く光る人影があった。
それも私の良く知っている少女そっくりだ。
「……シフォン?」
 濃い灰色の髪を三つ編みに一筋垂らし、気の強そうな眉、黒っぽい瞳の彼女はどう見てもシフォンだ。
私の一番の友達。粉屋のシフォン・フェルタ。
でも、こんな所にシフォンが居るわけがない。
私は何の魔法に掛けられているんだか。
「オーリィ」
 シフォンの幻は思い詰めた表情で私のあだ名を呼んだ。
『オーリィ』はシフォンしか呼ばない。
みんなは『オルヴ』と呼ぶから、その呼び方はシフォンだけだ。
なぜ、こんな所にシフォン―――いや、シフォンの幻が?
「オーリィ、オリヴィア」
 幻は、シフォンそっくりの口調で言う。
「この……人殺し」
 胸が、ひやりとする。
体中の力が抜けていく。
なんで、何を言っているのだろう、シフォンは?
シフォンの冷たい、軽蔑しきった眼差し。
「なっ……何を言ってるの、シフォン……」
「触らないで。オリヴィア。人殺し」
 シフォンは私の手からその身をよじって逃げた。
「待って……待って、待ってよシフォン!」
 シフォンは私を振り向くことなく走って行った。
シフォンの姿は暗闇に溶ける。
暗闇が私をも包みだした。
私が、何をしたの、シフォン……?


 ばちっ、ばちっ、とした音と共に、頬に痛みが走る。
頬が、痛い。熱感を持って痛い。
「おい。死んでるのか? おい。おい。おい、生きてるか? おい、どっちだ」
「……てん、ちょう?」
「よぉーし、生きてるな。返事をしろ」
 金色の筋が見える。
何を考えているのか分かりにくい亜麻色の瞳も、大きな手も。
私が目を開けてから店長は私の顔に張り手を食らわすのをやめた。
やめるまでに2、3発叩かれたのは気のせいですか?
「……お久しぶりです」
 ああ、頬が熱くて痛い……。むしろ、傷を触られたらしくひりひりする。
「全く、何処行ってたんだ」
「それは―――」
 こっちの台詞です、と言おうとした所でやめた。実際どこかに行ってたのは私の方だろう。
「鏡の部屋にいました」
「ふん、まあどこに行ってたか聞いたって意味はないんだがな」
 釈然としない。というより、そんな言われ方したんじゃ出来ない。
「どうだ、疲れたか?」
「……はい、とても」
「このくらいでへこたれるな」
 ……っ。
「なんだ、元気無いな」
「いえ、別に」
 さっきのは多分、疲れすぎてたから見た悪い夢だ。
シフォンがあんな事言うわけない。
第一私は人を殺してないもの。
「ジェイスは元気か?」
 店長は私の握っていた抜き身の剣を拾い上げると刀身に目を近づけた。
「ジェイス。ジェイス・キールト」
 銀色に輝いていた刀身は濁り、黒銀色に変わる。
「ジェイスさんって本当に―――」
「そう、剣の中だ」
 店長はこちらを見ないまま答えた。
 一人刀身に向かって頷いたり話しかけている姿は……ちょっと怪しい人だ。
「ジェイスさんと話出来るんですか? そうやるだけで」
「あー……、オルヴには難しいな。魔力を流してやる必要がある」
「鏡に映ったジェイスさんとは話が出来たんですけど?」
「鏡の起源は元々呪具だからな」
 ほらよ、と店長はジェイスさんとの会話を終え、抜き身のまま私にジェイスさんを放った。
「何か色々あったらしいな」
 だから疲れたと言ってるのに、この人は……。
「あともう一踏ん張り、だっ!」
 店長の指が閃き、何かが耳元をかすめる音だけがした。
すぐ背後で何かが壁に激突した音が響く。
肩越しに、真っ赤に染まった黒い物体が棒状の物に貫かれて壁に縫い止められている。
「吸血蝙蝠だ。危なかったな」
「へ、へぇ〜……」
 吸血蝙蝠だった物は、商品名“ポイズンチェッカー 棒タイプ”で仕留められていた。棒タイプのポイズンチェッカー……長さ約15センチメートル、直径1センチメートルの物が4センチメートルほど残して壁にめり込むって……。
「ほら、先進むぞ」
 あまり考えないようにしよう。
「どこに行くんですか?」
「宝珠を取りに行く」
 宝珠って……ああ、そういえばそんなのも今回の目的物でしたね。
「あの、他のはどうなりました?」
 店長は横目に私を見ると立ち止まったというより、立ちはだかった。
灰色のマントを跳ね上げる。肩当ての無い皮の胸部鎧の下にコート。これにアンダーウェアを着てるはずだから店長って意外と着込んでる。
暑くないの?
「そら、これが『屍食鬼の爪』」
 皮鎧の前で変な物が紐でつられている。青みがかった灰色の、まるで骨を薄く削ってカーブをつけたような板。
「こんな長い爪なんですか」
 一枚一枚、私の前腕ほどありそうだ。
「いや、『爪』と言っても指の爪じゃない。肋骨だ。屍食鬼、グールは普通の人間が持つ肋骨と同じものに加えて余分に不安定な肋骨を持つ。これを“遊撃骨”というんだが、売るときには『屍食鬼の爪』と呼ぶんだ」
 本物の骨、ですか……へぇ……。
どうやって手に入れるかは聞かないでおこう。
「さすがに、一般人に“遊撃骨”と言ったら敬遠されるからな。なんてったって倒した奴からえぐり出すわけだし」
 言わないで欲しかった。
「物に毒の魔法を付与するときには重宝する」
 店長。普通の一般人はモノに毒の魔法なんて付与しませんから。
「……『屍食鬼の爪』だけですか?」
「『スライムの臓腑』、『蠢骸の脳髄』はこっち」
 腰につけられた幅広の革ベルト。それをずりっと回すと幾つもの小さな蓋付き硝子瓶がちゃりちゃりと鳴った。
磨り硝子の瓶を取り出し、私の目の前で振ってみせる。
「『臓腑』」
 目を凝らすと丸みを帯びた物体が大小いくつかその中で浮かんでいた。
「まあ、スライムの核だな。まだ生きてる」
 うげ。またあの味を思い出した。
「熱線で焼き殺すと、回りの漿だけが残ってこれが初歩的な溶剤になる。もっとも核だけでも使い道はあるんだが」
 店長は次の瓶、今度は黒い色がつけられた幅広のを取り出した。スライムの入った瓶を持ったまま器用に、黒い瓶の蓋を外した。
コカっと軽快な音がして蓋が外れると、店長は中から折り畳んだ羊皮紙を取り出す。
薬包紙がわりに折られている羊皮紙はまだまだ瓶の中に詰まっていそうだ。
「『脳髄』」
 乾いた音を立てて羊皮紙が開かれる。中には―――
「粉、ですか?」
「ああ。蠢骸はゾンビのなかでも風化の進んだ奴だからな。もっと湿潤な気候ならいざ知らず、どうしたって脳みそが乾いちまうさ。こう、胡桃の黒ずんだ感じのが握りこぶしぐらいの大きさであるが、使えるのはこの白っぽい所だけ。少ないだろ」
 ベージュがかった白い粉は木の灰のようで、ふっと息が掛かっただけで舞い上がりそうだ。
「薬匙半分で牛4頭の致死量だ」
 早く言ってくださいよ!
私はあわてて、でもそっと口と鼻を覆った。
「面白い実験してやろうか?」
「いぃえ!」
 思わず声が裏返った。
「お、お疲れさまです店長! ね? きっと、そんなに集めたんじゃお疲れでしょう。
先行きましょう、早く帰りましょう! ね、ね?」
 つまらんな、と店長は口をへの字に曲げた。
曲げられても困る。「面白い実験」とやらで、何がおこるかか分かったもんじゃないでしょう!
「それから、最後に『宝玉』だ。オルヴ、ちょっとした話をしておこう」
 店長は憮然としながら扉に手をかけた。
「かつて、領主に見初められて、望まれた貧しい農家の娘が居た。当然、この娘はとびきり美しく、若鹿のようにはつらつとしていた」
 私は思わず、店長を見た。店長の口からそんな言葉が飛び出すとは、予想外。
「まあ、その代わり頭の使い道を知らなかったが」
 ……やっぱり店長は店長だわ。
「二人は結婚したが、そこに愛はなかった。老いた領主は娘の若さ、器量に惹かれたが、若い妻は領主としての地位、金に惹かれていたからだ。当時はこの国もずいぶん戦火に覆われてな。領主はちょくちょく戦場に赴いて、若い妻は豪邸の留守をまかされた。今から150年ぐらい前の話だ」
 もう既に鍵を開けていたらしく、ぼんやりと鈍い金色の取手はゆっくりと下がる。
 150年……。
「妻の思いの中には多分こんなのだろう。美しい若い自分は老いた夫には勿体ない。
豊富な財産はかつての自分の貧しい暮らしを忘れさせ、宝石で自分の身を飾る栄光。
『もっといい男と、ちょっとぐらい楽しんだっていいじゃない?』」
 扉はきしみながら開かれた。光虫珠の光は扉の隙間から素早く忍び込み、何かに反射してきらめいた。でも、それはすぐに止んだ。拡散した光虫珠の光はまだ輝いてはいるけど、その部屋自体が明るくなったのだ。宙に浮かぶ、青い炎で。
「旦那である老人にとってはひとたまりも無い。自分は自分の子孫を生んでもらうためにわざわざ美しいこと以外の取り柄の無いまるで無知の農民娘を連れてきたのに、他の男の子供を孕んでは意味が分からない。女中の一人が密告し領主に伝えた」
 この青い炎、一体なんなんだろう? 店長の魔法なのか、それとも他の人―――多分、こんな所で遇うとしたら襲いかかってくるかもしれないけど。
「妻の不義を戦場で知った領主はそのまま隙を突かれて作戦に失敗。名前も分からない一兵卒に殺された。だが、領主とてただ死んだわけじゃない。妻を呪って死んだ。今後妻が自分の遺産をエサに他の男を抱こうとするときには、妻の手で男が死ぬように。妻は永遠に自分のものであると」
「なんか、どっちもどっちですね。どっちも欲深で」
 私は咳き込みながら答えた。埃と蜘蛛の巣で全体的に白っぽい部屋だ。だが、装飾自体はいままで見てきた部屋以上にきらびやかな代物だ。緋色と金糸で織られた家具の覆いも然ることながら、柱も細かなレリーフを刻んで装飾性を高められている。当然壁はファルシアー。どこの部屋の壁よりも細かな押印で、色鮮やかだ。ちょっと雨漏りでもしているのか、天井の方に水染みがあるみたいだけど。
「ひ……っ!」
 突然視界が遮られた。暖かく、でも埃っぽい。古びた革と何種類もの薬草が染み付いて作り上げる匂い。何を思ったのか、店長は私をマントの裾に入れたのだ。
あれ? 固いものが頬に触れ……って、『屍食鬼の爪』!!
「ッき―――」
「ちょっと黙ってな。奥様のお出ましだ」
 店長の手が私の口を塞ぐ。悲鳴がもぐもぐとした音に代わった。
でも、でも『爪』が……っ。
嫌だよ、変な匂い。二、三日放置した野菜の卵とじの鍋以上に臭い。一度気にしたら、ずんずん気になる。うぅう臭い〜臭いよぅ……。
「奥様は貞淑な妻になるよう呪われたのさ。死してなお妻を呪う夫の強欲。いいねぇ、それでこそ宝玉を生み出し残せる素質だ!」
 店長が歩けば私も歩く。ひらひらと揺れるマントの裾から正面が覗くことができた。
青白い炎が照らすソファに寄りかかっている気怠げで豊満な美女。左手に青ざめた玉を玩び、薄衣のネグリジェの下にある凹凸の見事な肉体美は彫刻か何かのようだ。思わず目が釘付けになって足を動かすことすら忘れてしまう。
凄く、何か―――自分の胸が痛い。心臓の音がうるさい。
「歩かんか、馬鹿者」
 店長が背中をどつかなければ膝が笑って動けないくらいだ。
「……まさか、お前―――」
 店長が睨みつけているであろう視線がマント越しにも痛い。
「べ、べっつに、あの人見てたらちょっとどきどきするだけで、べつに! あの人が好きとかそんなんじゃ」
「単純極まりない魅了の魔法に引っかかるなよ、めんどくさい」
 ため息とともに店長のデコピンが私の眉間に炸裂した。
「不用意にマントから外を覗くからだ」
 私は返事出来なかった。脳みそをも震わせんとするその衝撃に呻いていたからだ。
店長、眉間は急所です!
「え〜っと、何の話だったっけな? お前がバカやるから忘れたじゃないか」
 これは責任転嫁ですか?
「ああ、そうだ。宝玉を貰いましょうってな話だったな」
 店長は私の肩を掴んで前を向かせた。でも、前を見ていいの?
「……」
「……」
 頬にひたひた触れるグールの骨さえ無ければ、なんともまったりとした雰囲気が流れる。いや、実際には今回の旅の最終目標がマント一枚隔てているんだけども。
「店長?」
 何もしないんですか?
「オルヴのせいで決め文句が言えないじゃないか!」
「ええっ? 何ですか、それっ!?」
「折角、ずばっと終わらせるための文句をこの館に入って以来考えていたのになあ」
 よくもまあ、そんな長いことしょうもないことを考えましたね。
「いいか、オルヴ。こういうある種の略奪が目的となっている旅ってのはいかにして最後を締めるかが成功か否かを決めるんだ。大切なことだ」
「……モンスターから受けた傷を即消毒するのとどっちが大事ですか?」
「同等だ。いや、むしろ決め台詞は大事」
 すんごい疲労感で目眩がします。店長ってそんなにナルシズムでしたっけ?
「責任とれ」
「はい……。え?」
 急に視界が開けた。生温い湿った空気が肌に吸い付くようで気持ちが悪い。マントから追い出されたんだ、ってちょっと酷い……。
またあの悪寒が走る。
誰かにねっとりとした視線で見られる、あの感覚。
「あら、随分と若いのね……」
 甘ったるい匂いが声と一緒になって紡がれる。ふっくらとした顔にあるラズベリーのような紅い唇が動くのだ。
「いいのよ、いらっしゃい。怖がらないで―――」
 いや、怖がっちゃ無いんですけどね。怖いけど。
「ほら、行け。取ってこい」
 フードを被った店長がひそひそと耳打ちする。
ちょっと! 押さないで、押さないでくださいよ店長!
「いい子ねぇ……。かわいい子は大好きよ」
 『かわいい』って、意味が違うんだろうな、絶対。
店長が一際大きく私を突き飛ばした。
思わず前のめりになって倒れた私は慌てて顔を上げ―――悲鳴も上げた。
「わぁ―――っ」
「あ、馬鹿」
 “奥様”の唇が私の額をすいっとかすめたのだ。そこから胸までが凍るように冷え込む。
「なんだ、女の子なの」
 “奥様”はぺろりと舌を出して口の回りを舐めるとまた気怠げに手の中の玉を転がし始めた。
「早く行きなさい。今ならまだ許してあげる―――」
「ですってよ、店長!! ほら、早く帰りましょうよっ」
 私は店長のマントを縋る一心で掴み、後悔した。
「あら、殿方もちゃんと居るじゃない。その男性は置いて行きなさいよ、小娘」
 店長は舌打ちをした。突如伸びてきた“奥様”の白い右腕は肘関節で私の足首を絡め、マントで身を隠した店長へと伸ばされる。
「オールーヴー?」
「ごめんなさいぃ……っ」
 店長はマントで白い腕を受け流しながら私の手を取った。それがまずかったらしい。
「まあ、生意気ね。小娘風情が」
 その言葉に私は反論出来なかった。激痛が脳天にまで響いた。
「うっくくっあぁああああっ」
 足首を捻られて関節がずらされたのか、ナイフを関節に差し込まれかのような痛みだ。
 遠くで二回目の店長の舌打ちを聞いた気がした。
ふわりと暖かいものが背に掛けられると痛みがわずかに薄れる。静かにそっと明滅する灰色のマント。
「連れは見逃して下さい。あとは奥方の御随意に」
「そうよ。最初からあなたが出てくればその子を傷つけなかったわよ」
 私の足首から蛇のような腕が外され、その手は蝶のように店長の肩にとまっては離れ、とまっては離れを繰り返した。
「さすが、奥方……慣れてらっしゃいますな」
 店長の胸部鎧が『屍食鬼の爪』と共に音を立てて落ちた。蝶のような手が手際良く外していたのだ。まだ灼熱感を伴う痛みのなかで、私はそれを見ていた。
「慣れているだなんて、わたしをそんなアバズレと思って?」
「……」
 店長は答えなかった。
奥方はいつの間にか店長の腕に収まって、店長の金の髪を指に絡めている。どうしよう、私、店長を助けられる?
「……」
「まあ、うらやましい。わたしよりも美しい髪。金細工のようね」
 私は何をすれば良い? このままじゃ店長がとり殺されちゃうよ……。
「ダンスをしましょう。戦い疲れたあなたにしばしの休憩を」
 “奥方”は白い手を店長に渡し、身を預けるようにしだれかかった。
「らーららららーららららーららららー……」
 ラズベリー色の唇が調子をとり、それに合わせてゆらゆらと二人は踊りだした―――って店長踊ってる場合ですかっ!?
 本当、どうしよう? 店長も魅了の術に掛かっちゃった? さっき私にデコピン食らわせておいて自分も引っかかっちゃったらお笑いぐさにさえならない。
それに……あれは何?
店長の肩に置かれた奥方の左手。そこから立ち上る青白い煙。
 人の形にも見える―――おじいさんの横顔? 
怒っているのか皺の中に凄い殺気を秘めた顔が煙の中に……。
“奥様”の“旦那様”にちがいない!
驚いている間にも“旦那様”はむくむくとふくれあがり形を変える。その姿は戦斧を振り上げる屈強の騎士!
「店長、後ろ―――っ!」
 店長はちらっと“旦那様”を見ただけだった。“奥様”の腕をとり、手を持ち替える。振り下ろされる斧。“奥様”はそっと背伸びをして、さらにしだれかかる。私は悲鳴を上げていた。斧が店長の頭に触れるまで、あと40センチ、30センチ、10センチ―――
「奥様、ダンスのお時間は終了だよ」
 不意に店長は“奥様”を体から離した。
「俺はもう欲しいもの貰ったからさ」
 店長は薄い唇を横に引いて微笑んだ。その右手に握られているのはあの青ざめた玉―――“奥様”の玩んでいたのに似ているけど、金色の文字がつるりとした表面に浮かんでいる。そこから立ち上る煙はしゅるしゅると玉に戻っていく。
「封印」
“奥様”は頬に手を当てていた。声にならない悲鳴を上げているよう―――薄れて行く姿から思いもよらない大音声の悲鳴が上がった。甲高いラッパを耳元で吹き散らすような、鼓膜が引き裂かれるかと思うような音が響く。
―――終わった……。
思わずため息が出た。
「随分あっけない終わりだったなあ。これじゃあゾンビの大群の方がよっぽど手応えがあった」
「平和が一番ですよ」
 店長はつまらなさそうに口をへの字に曲げて尖らせた。


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